毎日考えたことの備忘録を始めた

友達が書いて公開している日記を毎週読むのが密かな楽しみになっていた。彼の日常を切り取って自分の思考と感情を使って表現するセンスに溢れていてすごく好きだ。

毎日色んなことを考えながら生きている。

わたしは日常を鮮やかに切り取ることは苦手だけど、自分のその日考えたことの備忘録はつけておきたいと思った。

 

 

月曜日

「仕事を頑張っている」がわたしには分からないことに気付いた。毎日きちんと出勤して、自分に割り当てられたタスクをこなして、定時に帰る。もはや心が頑張りたくなくても身体が勝手にそう動く。今の仕事に不満など何もないけれど、頑張っていると言えるかと聞かれたら不完全燃焼な気がして仕方ない。

でも、仕事を頑張っている状態って自分の時間にも仕事のことを絶えず考えたり、そもそもプライベートと仕事の境目がついていなかったり、身を粉にしている状態なのだろうか。それとも、明確な達成すべきビジョンが見えていて毎日の業務はゴールに辿り着くまでの手段みたいなことなのだろうか。ちょうど、大学合格を目指す受験生の毎日の勉強みたいな感じ。

そう考えると、明確なゴールもなくひたすら目の前のタスクをこなして家に帰る毎日は、何だか頑張っていると自分で認めるには中途半端な気がしてしまう。恐らくわたしは、目に見える結果が欲しい人間なんだと思った。

そういう意味で、どうしたら仕事を頑張れるのか最近よく考えるようになった。

 

火曜日

久しぶりに職場の同期でご飯会をした。

やっぱり同期は話していて楽しい。

次の日が祝日だったから、明日は何をするのかという話題になった瞬間に、みんな黙り込んだ。次の日何をするのかの話は出来ないのに、予定がない日の過ごし方で盛り上がるのはすごく面白いと思った。

土日の休みを2日とも家でゆっくり過ごすことに抵抗がない派の人と、片方は誰かと会ったりどこか行くとかの用事がないと辛くなる派の人にぴったり分かれた。

わたしは予定が入っていると嬉しい、かつ次の日の予定が決まっていないと落ち着かない人間だから、予定が無い日でも次の日どう過ごすかを頭の中できっちり計画立ててからじゃないと眠れない。

そして、仕事中にわたしがツボを探してピップエレキバンを貼っていることを同期に見られていたことが分かって笑った。「服からちょっと見えてるよ」って言われた。

 

水曜日

久しぶりに天狼院書店に行った。本屋さんというより、カフェ経営とイベント経営をしている変な本屋さんって感じの書店で、Wi-Fiとコンセントと美味しいご飯がある快適すぎる環境で、勉強をした。わたしは最近、天狼院書店の「小説を書くためのプロット講座」を受講している。

文章を書くということを改めて学習する機会は今まで無かったけど、文章を書ける人が書く文章と、書きたいだけの人が書く文章がどう違うのか少し分かってきた気がする。

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木曜日

最近、K-POPアイドルのオーディションドキュメンタリーを観るのにハマってる。

まだ中学生とか高校生くらいの年齢の子たちばかりなのに、人間性がとにかく出来ているのがすごいと思った。

誰かが「夢」を追いかけて全力で何かをする姿を見ていると、自分もまだまだ頑張れると思えるし、その元気が欲しいがために観ているんだろうと思った。

見ているだけで人を元気にできるアイドルってやっぱりすごいなって思った。見てるだけで元気をもらえるって人生でよっぽど言われない言葉じゃん。

 

金曜日

友達の恋愛相談を受けていた。わたしには幸せそうに見える人たちも、その人なりの葛藤や迷いがあるんだなって思った。恋愛相談って、自分の意見を言うんじゃなくて、相手の思考の整理を手伝うだけだって自分に言い聞かせないと余計なことを言いかねない。そもそも語れることは無いけど。でも、「ちゃんと言えなかった」「してあげたかったことを出来なかった」後悔だけはするべきじゃないことは痛いくらい知っている。

 

土曜日

今日は1ヶ月ぶりに二胡のレッスンに行けた。

月2回で隔週レッスンだけど、前回は友達の結婚式でレッスンをお休みしたからだ。

おじいさんとおばあさんと3人でレッスンを受けているけど、1ヶ月ぶりなだけなのに、「おー!来た来た!元気にしとったか?」って言ってくれてすごく嬉しかった。

わたしはおじいちゃんおばあちゃん子だから、レッスンでも孫みたいな気分ですごく楽しい。

二胡は習い始めてようやく3年目に突入した。社会人になったと同時に習い始めたから、社会人歴と足並みを揃えて年数を重ねていく。

ようやくちょっと、誰かに聞いてみて欲しいなと思えるくらいになった。まだまだ下手くそだし、テクニックも使えないから素弾きしか出来ないけど。

それでも、小学生の時から音色に惚れて、大人になったら必ず弾くと決めていた二胡を今、自分が少し弾けていることがすごく嬉しい。

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(習いたての頃の写真)

変わりたいタイミングに自分を変えてみること

ついこの前、髪を染めた。もう何年も担当してもらっている信頼のおける美容師さんだから、「イメチェンしたいので、染めた!って分かる明るさにしてください」ってだけオーダーした。
就活のための試験勉強を始めてから働きだしてからも3年ぐらいずっと黒髪だった。
最初は就活のために仕方なく黒髪だったけど、
地毛の黒って手入れがとにかく楽だし、意外と黒髪似合う顔なんじゃんって思ってから、けっこう気に入っていた。
でも、イメチェン欲と天秤にかけたらあっさり黒髪は、カラーに染まることになった。
カラー剤をシャンプーで落としてもらって、乾かし終わった後に鏡を見て、誰!?ってくらい見慣れない自分を見る瞬間がワクワクする。


自分を変えたいときは、とりあえず外見からがらっと変えることにしている。
去年は肩くらいあった髪を高校生のときぶりにばっさりショートに切った年だった。
失恋したから切ったんじゃなくて、前に付き合ってた人がショートが好きって言ってたから、わたしこういうことするタイプなんだって思いながら、何となく切ってみた。
ショートにしてから別れた時、気分転換したくても切る髪の毛が無いじゃんってちょっと腹が立った。
でも、色んな人から似合ってるって褒めてもらえるし、今までショートは似合わないと決めつけて食わず嫌いだったけど、ショートが似合うことが分かって、もうしばらくは髪を伸ばせそうにないくらい気に入っている。
だから、切るきっかけをくれてありがと!って思ってる。


「わたしって色気とかある?」
信頼している友達に聞いたことがある。
何を聞いてるのって思うけど、わたしは自分が冴えないことにすごく悩んでいた。ダイエットして痩せたらマシになるのかなとか、メイクをもっと研究したらとか思っていたけど、何をしてもどこか冴えていないように思えた。
友達は、「色気、ちゃんと持ってるのに最近はわざと封印してるのかと思った」と返してくれた。
昔はミニスカートとか肩が出る服とか、割と露出度高めの服が好きだったけど、社会人になってからは、肩を出すとか、膝が出るくらいの丈すら抵抗を覚えるようになった。
外見で軽いなって思われるのが怖いなって思うし、もはや露出は似合わないと思うからだ。
わたしの思う色気とは、肌の露出で得られるエロさではなくて、内側から滲み出るその人らしさだと思っている。


でも、何か冴えないなと思うわたしは、自分の内側にあるものを外に表現することに長けていない。
「あなたは女性らしい柔らかさがなくて、でも中性的ってわけでもなくて、何か"人間"って感じ」
そう言われたことが何度かある。
正直、あー分かるって思った。
わたしが軽々しく恋愛相談をした時に言われたそれは、もっと女の子らしくなりなよ!女の子らしく振る舞いなよ!って意味だとは分かってる。
女性"らしさ"とかこうあるべきというのは苦手だし、甘え下手だし、歳の割にすっごく落ち着いてるねって言われるから可愛らしさに欠けているのはすごくよく分かるけど、好きな異性からも、どんな人からも"人間"として思われるとしたら、それはちょっと辛いなって思った。


「もっと柔らかく見えるには、どうしたら良いと思う?」って聞いたことがある相手には、「今は大人しくまとまりすぎてる気がするから、髪を伸ばすとか、明るい色の服を着るとか、もっとそうすれば柔らかく見えるよ」
ってアドバイスをもらったことがある。


自分が変わりたいと思ったタイミングが、変わり時だとよく言う。
髪を染めてから、鏡を見て、何かしっくりくる!とか、最近よく笑うようになったなとか、考え方も変わったかもって思うことが増えた。
自分しかよく認識してない変化だとしても、内側に篭っていた個性が少し引き出された気がする。

大切なのは、人からの見られ方に直接的にどう変化があったかよりも、自分の内側でどう変化があったかだ。


変わりたいと思ったタイミングに自分をアップデート出来ることって、案外大事なことなのかもしれない。

 

 

 

 

秋の夜長に

 秋になると、今年の終わりが見えてくる。この前まで暑さで蕩けていたのに、吹いてくる風が半袖では鳥肌が立つほどひんやりとしてきたと感じた瞬間、後ろから急かされている気になる。
今年やり残したことは何?と聞かれても、やり残したことばっかだ。


 昨年から後ろ髪を引かれたまま断ち切れずにいるものもあるし、むしろ後ろから引っ張られるものがないくらい断ち切ったものもある。
わたしは恋愛に恋して失恋に失恋する身勝手な人間なのだ。
それだから、相変わらず恋愛で得たものといえば、恋愛ソングが他人事に聞こえなくなったことと、失恋ソングで妙にしんみりできるようになったことだ。
そう言わないと秋の夜道を闊歩できないと思った。


 変化がないと言われるのがいちばん怖くて、一年を振り返ったときに、何を手に入れたか、何が変わったかを数えられないことが怖い。
焦れば焦るほど新しいものに手を出す癖は直っていない。
気付けば、机の上はいくつものタスクが散らばっている。
つまみ食いしてはどれも未完成のままで、何にも自信を持てずに、一体何がやりたいのか分からなくなる。


 仕事の面談のときに、上司は今のわたしの仕事をいくつか褒めてくれた後に、「でも、仕事の出来に波がある」と言った。
今の上司は本当に尊敬している人で、わたしのロールモデルにしたい人だ。
ネガティブな点を指摘されているはずなのに、あぁやっとわたしは、このことに向き合えると思った。
黙認して諦められるより、しれっと軽く指摘してくれる上司に救われたと思った。
できる日はすごくできるけど、できない日はとことんできない。
確認したはずなのに確認が甘いとか、やってるつもりなのにやっていなかったとか、自分でもよく分からないケアレスミスがすごく多かった。
ケアレスミスを繰り返した日は、帰りの電車に揺られながら「今日は何しに職場へ行ったんだろう」と考えてすごく落ち込む。
能力云々の前に自分の頭の機能が心配になってネットで色々調べた。
「原因は?」と聞かれても答えられなかったけど、でも、本当は分かっていた。
頭の問題じゃなくて、明らかに心の切り替えが下手くそだからだ。
自分が思っているよりも、仕事の丁寧さに影響が出てしまっていることを知っていながら目を瞑っていた。


 あんなにも就きたくて、もがいてやっと就くことが叶った仕事だったのに、仕事へのモチベーションが地に落ちていた。
わたしは自分の仕事に誇りを持てない人にはなりたくないと思っていたのに、いつの間にか自分の仕事に対する丁寧さと責任感を失っていた。
とことんプライベートとその日の気分に引っ張られる仕事の出来を見過ごしてきた。


 面談の日は指摘されたことに落ち込むよりも、引き上げてもらったと思えた。あぁ、やっと自分の直すべきところに向き合える。
金曜日だったから、その足で無印良品に向かって、デイリー欄が大きい手帳みたいに使える真っ新なノートを買った。
変わるためにとことん向き合おうと思った。


 今日、始業前にノートを開いて、今日やるべき仕事と今の気持ちを書き込んでいった。
眠気で頭がぼーっとする。そういえば、最近のわたしは毎日眠りが浅い気がする。
「今日は早く寝る。眠る前にスマホを見ない」
「一度手をつけたことを終えるまで別のことに手をつけない」と自分へのメッセージを書き込んだ。
今日は憂鬱なはずの月曜日なのに、けっこう出来る日だった。


 その代わりに、気を張るモードが抜けきれずに夜道を散歩しながら思い浮かぶままに考え事をした。
失って初めて気付くものとは、それがいかに大切だったかということではなくて、わたしを一段押し上げてくれた感謝だということ。
いつも気付いた時にはもう感謝を言えないけど、そうやってわたしは成長しているのよ。

 

 

 

 

人生

わたしは最近、泣いても仕方がないことで泣くのが嫌になった。泣いても1ミリも解決しないのにメソメソしている自分を客観的に冷めた目で見るようになったからだ。それなのに、今めちゃくちゃ泣きながら文章を打ってる自分がダサい。
でも、誰かに話そうとすると、泣けてきて全く何も話せなくなるし、気を遣わせてしまうから
ひとりでこうやって書いている。


仕事の、事務官から書記官になるための試験に落ちた。
職場では平然を装わなきゃいけないし、無理矢理切り替えて来年頑張ろうって思って今日一日明るく振舞いながら仕事をしていたけど、家に帰ったら涙が止まらなくなった。
すごく、悔しかったし、自分が情けなかった。


毎年7月に行われてる筆記試験だけど、今年に入ってからずっと仕事終わりに2時間職場に残って勉強したり、毎週土日も遊ぶことなく勉強していた。
社会人になってもわたしはずっと試験に追われてるんだなって思った。
でも受からなきゃ未来がなくて、今の仕事で満足できるわけもなかった。
合格したくて、でも、何となくこの結末が頭をよぎって、GW過ぎたあたりから毎日怖くて不安だった。
今年も不合格だった。
一緒に勉強していた同期や友達は合格して、わたしだけ取り残される。


あぁ、わたしの人生だなって思った。
もう何度もこれを経験しすぎて、はいはい、このパターンねって呆れる。
何でいつも頑張ってもすんなり上手くいかせてもらえないんだろう。
いつもこのパターンの自分の人生が嫌になる。
これから、書記官になるために準備を始める同期と、また振り出しに戻る自分の対比に足がすくむ。
必死に息継ぎをしながら溺れないように泳いでるみたいな自分の人生が、本当に嫌になる。


努力しながら不安になっているときは大抵いつも上手くいかない。
わたしはすぐに周りの人と比較してしまう。
やばい、同期の子はこんなに出来ているのにわたしは全然出来ていないとか、あの子はあんなに頑張っているのにわたしはいまいち、モチベーションの波に乗れていないとか、本当は内心、焦りと自分への苛立ちで、上手くいっていないことが分かっていたんだと思う。
つくづく、理想と現実の能力の差に気付いていない。
本当はそんなに出来る人間じゃないのに、周囲の出来る人間に囲まれすぎたせいで、自分がそんなに優秀じゃないってことを忘れていた。
泣いているのは多分、努力したのに報われないからっていうよりも、自分の頭の悪さとか効率の悪さとか、自分に対する失望感と苛立ちを感じたからなんだろう。


だって、正しく効率的に積み重ねた努力は、ちゃんと報われることをわたしは知っている。
だから、この結果は、努力はしたかもしれないけど、その努力の仕方が間違っていたんだよという現実を突きつけられたに過ぎない。


感情と思考は切り離されていて、感情でわーって泣いている中、思考回路はいたって冷静なんだなと思う。
脳内で、「泣いている暇があったら、自分のやり方をとことん見直せ」とか「感情に振り回されないで、現実を見直しながら淡々とやれる人がうまくいくんだよ」とか色んな言葉が降ってくる。
この失望感を人生で何回もやってきたからなんだろうと思う。
人間って、疲れ果てて感情がいっぱいいっぱいで苦しい時こそ、必死でポジティブな思考や、活路を捻り出すものなんだなって思った。


立ち直るために、誰かに慰めてほしいのか、喝を入れてほしいのか、放っておいてほしいのかすら分かっていないけど、ひとこと「まだ頑張れ」って言ってほしい。

 

来年こそ絶対合格する まじで頑張る

 

 

なんでもないこと

今日は、2時間分会社をサボって早退してきた。何か心が無理だった。
何が無理かと聞かれたら、抽象的な表現しか出来ないほど、具体的な無理な出来事が出てこない。小さい子のよく分からないグズ期と一緒だと思う。
心が無理なのと、今の仕事がめちゃくちゃ暇で、早退しても何ら構わないという、早退するしかない環境が整っていた。

わたしはとにかく静かな純喫茶みたいなところで、ひっそりと本でも読んで心を落ち着かせたかった。それなのに、今、駅からちょっと歩いたところの狭いミスドにいる。
静かな純喫茶は駅から遠いし、そこに行くまでに歩く元気が無かった。
せっかくならいつも食べないドーナツでも食べようと思ったのに、後ろの人に急かされるように咄嗟にトレーに取ったのは、いつものエンゼルクリームだった。お飲み物はどうしますか?って聞かれて、迷ったときのいつもの癖でアイスカフェラテにしたけど、店内は空調が効きすぎていて、アイスを選んだ自分を飲み始め3秒で恨んだ。
ミスド、まじでJKが多すぎる。
何があったのか知らないけど、泣いてるひとりの背中をさすってる集団の斜め前に、コイバナでめちゃくちゃ盛り上がってる集団がいる。
このふたつは別の集団で、どちらも同じように笑うときは勢いつけて手を叩く。スタンディングオベーションか。
今更、JKのノリは無理だなと思った。でもよく考えたら、自分がJKだったときから無理だった。


この席からは、顔を上げるだけで店のガラス張りの自動ドアの向こうがよく見える。
確か今日の天気予報は夕方から雨だったのに、傘を持ってない。いつ降るのかな〜って外行く人が傘をさし始めていないか2分に1回は見てしまう。今にも雨が降りそうだから早く店を出れば良いのに、せっかく入ったからすぐには出られないし、アイスカフェラテはMサイズ。
実際雨が降ったらやばいのに、泣き出しそうな空の色ってこういうことかって、そういう悠長なことばかり浮かぶ。
今日は濡れたい気分だと思っても、いざ濡れたら濡れたでもっと不機嫌になる。


本当に何がしたいんだろうと思う。
何となくもう無理だったから有給を2時間分消費したのに、早く家に帰るわけでもなく騒がしいミスドで燻ってる。


本当は今日、好きなアーティストのライブだった。倍率高いのに当選してて、行ったら今の憂鬱な気分が一気に晴れる予定だった。
行こかな、行ってもいいかなって迷い続けて、
でも、こんなご時世で、わたしの行きたい気持ちだけで、人が多い場所に行ける気がしなかった。家族に行かないでって言われたら、行けなかった。
後ろめたいことをする勇気がとことんない。
ずっと楽しみだった予定がどんどんスケジュール帳から消えていくし、こんな時に話したい人にご飯行こって誘えない。でも、みんなそんな気持ちを抱えて日常をやり過ごしてるのに、わたしだけが文句を口に出せない。
仕方ないことを仕方ないとちゃんと諦めがつくのが大人だと思った。


ミスドは結局、周りの楽しそうな騒音に負けて、すぐに出てきてしまった。
大型商業施設をブラブラ散歩することにしたけど、仕事しか予定がないのに新しく服を買う気分になれないし、雑貨もまったく惹かれない。
せめて心を救うために辿り着く最終地点はいつも本屋さんだった。
最近は、詩に惹かれる。
現代は、エッセイをぎゅぎゅっと濃縮した詩を書く詩人が多い。詩を拡大トリミングして書かれたエッセイは、シンプルな構造だからこそ言葉選びの上手さが際立つ。
パラパラと立ち読みしたら、やっと少し心がかき乱された感じがしたから、今日わたしが、わたしに買い与えるべきものはこれだと思った。
工藤玲音と最果タヒの著書を1冊ずつ買った。

 


そういえば最近、仕事のデスクに、『シンプルに考える』とでかでかと書いた付箋を貼り付けている。
わたしの思考は無駄が多いからだ。
文章でもなんでも「明瞭簡潔」が好かれるというのに、ゴテゴテに飾り付けされたクリスマスツリーみたいに考えること、言いたいことがどんどん膨らんでいく。
「クリスマスツリーは、クリスマスの為に飾り付けをした木」これでいいんだ。
「クリスマスツリー(あ、クリスマスツリーってどこが発祥なんだろう)は、クリスマスの為に(そういえば外国ではプレゼントをツリーの下に置くのになんで日本は枕元なんだろ)飾り付け(てか電飾とか飾りが重すぎて枝折れないのかな)をした木(モミの木だっけ?)」じゃないんだよ。
その点、上手な人が書く詩って、言いたいことがパン!パン!パン!って出てきて最後にジュワッていう余韻を残す。
これがシンプルアンドエモなのか?


でも、シンプルにこだわるゆえに、最近ショートヘアですらちょっと伸びると鬱陶しくなってどんどんショートにしてるんだけど、気分転換に振りかけたヘアミストが、自分には全然香ってこないことに気がついた。
お気に入りのホワイトティーのヘアミスト。
髪が長かった頃、結んでいた髪の毛を解いた時に、一日中髪の毛の内側に閉じ込めていた残り香が、ふわっと香ってくる瞬間が好きだったのに。

書くことを辞めるタイミングが分からなかった

noteを辞めるタイミングが分からない。それは、書くことを辞めるときだろうか。「辞めるタイミングを考える」って、アイドルのグループ卒業とか今の会社を辞めて転職しようとかそんな時に使う言葉だと思っていた。
わたしはまだ、「辞めるタイミングを考える」をしたことがなかった。
大抵、わたしが何かを辞めるときは、忙しくなって都合が合わなくなった習い事だったり、もういいかなってゴミ箱に捨てるイメージで自分から切り離す恋愛だったり、自然のうちに疎遠になっていく連絡の取り合いだったり、自分から辞めるタイミングなんて選べるものじゃなかった。
習い事は仕方なく辞めるだけど、他は「止める」に近い辞めるだと思う。

みんながパラパラとnoteを辞め始める。
だからといって、「わたしもー」って続きたいわけではない。
そんな気軽に便乗出来ないほど、約2年間で書き溜めてきた270以上の記事と、自分の文章を誰かに読んでもらえる場所、そしてそこで出会った友達、そんな場所への愛着というか、重みがある。
未練だろうか。まだ、過去のことにしたくないとしがみつく恋愛みたいな感情だろうか。
友達は、もしかしたらnoteを辞めてしまった後も、ツイッターとかLINEを通じて関わり続けられるのかもしれない。でも、基盤にあった「書くことで繋がる」が無くなってしまう先を、まだ考えきれていない。


noteを辞めたら、自分の文章を表に出すプラットホームを失って、わたしはもう書かなくなるだろうと思う。別に自分の手元のノートに日記を勝手に書いておけばいいんだけど、誰かに自分の文章を読んでもらう感覚を一度覚えたら、もう独り言には戻れない。
そのくせに、最近何にも書けなくなった。
書きたいことが浮かんで、iPhoneのメモ帳(いつもメモ帳に下書きを書いている)を開いて文字を数行打ち出すと、書き出しだけで、もういいやってなる。下手くそなのだ。
わたしの家族や友達ならば、「わたしが書いた」という理由で読んでくれるかもしれないけど、全く知らない他人が文章を読んでくれるきっかけとは、書き出しの数行だけで「面白そう」と思わせるしかない。


書きたいと読まれたいを天秤にかけたとき、「どうせ書くなら読まれたい」という曖昧な答えに逃げてしまう。わたしは、noteを始めた当初から書きたいから書き続けると言ってきた。でも、どうして書きたいのかを考えたら、「書きたい」という表向きの理由を纏った本当の欲望は、「多くの人に読まれる文章を書ける書き手になりたい」だった。
何かを書く人なら当然の欲求なのかもしれない。書くことよりも読まれることに達成感と自己肯定感を感じるようになった。
「書きたいのなら、書き続けたほうがいいよ」って言ってくれた人がいる。
読まれたいと願うのも、読まれるための文章を書くのも全く悪いことじゃない。むしろ、それは書くのに必要なモチベーションだ。
でも、わたしは欲求だけはもっているのに、「読まれるものを書くための努力をする」という固い意思はもっていなかった。


2年前はよく、創作の短編小説を書いていた。
言葉で言い表せない感情を、カタチにして誰かと共有したかった。
例えば、「嬉しい」という感情を表す色は?と聞いたら、その色がみんな一致しないように、感情はその人のバックグラウンドを含む色で表される。だから、わたしは、哀しいとも嬉しいとも寂しいとも一言で言い表せる感情が混ざり合った「切なさ」という抽象的な感情が、言い表せない感情を表すのにちょうど良くて、その心地の良さが好きだった。
創作の小説を使ってその複雑な「切なさ」をどう伝えるかに必死になっていたし、わたしが狙ったのとは全く違う感情を受け取った感想をもらえることが嬉しかったし、それこそが「書きたい」ものだった。


でも、わたしの書いたnoteでいちばん伸びたのは過去の痛みを書いたエッセイだった。
そのnoteだけは、もう一切伸びなくなった他のnoteに群を抜いて、今でもそれなりに静かに伸び続けている。
わたしの経験を書いたものが誰かを苦しみから救うのならばそれはいいことだ。きっと、苦しんでた過去のわたしがそのnoteを読んだらそれに救われることだってあっただろう。
ただ、今のわたしがそのnoteに救われないのは、正直に言うと、それを読んでくれた誰かを救う目的で書いたからじゃないからだ。
一時期、「note編集者がオススメする今日の注目記事」をくまなく読んで、読まれる文章とは、みんなが共感したり明確な感想を持ちやすい、インパクトのある体験談を書いたエッセイだった。わたしの分析が、偏見と語弊だらけなのは許してほしい。
でも、わたしの270あまりの投稿の中で、閲覧数とスキの数がどんどん伸びるのは、ダントツに「経験ありきの文章」を書いたnoteだった。


経験ありきのnoteを書くために、今までの経験を吐き出すようにエッセイとして綴った。
エッセイといっても、エッセイのお作法なんて全く知らないから、ほぼ日記に近い形でしか書けなかった。
でも、経験してきた痛みも境遇も恋愛も、ありきたりすぎて、わたしよりももっとすごい経験を持っている人なんて、溢れかえっている。
経験を吐き出す文章を書いて伸びた閲覧数を眺める、また、ネタとなる経験を思い出して書く、を繰り返すうちに次第に書くことがなくなって、それでも絞り出そうとしていると、自分を削り取っていく錯覚に陥った。
読まれる文章を書くためには、経験を、赤裸々に詳細に書いた方が良い。暴露本や本音を書いたエッセイのほうがウケることは知っている。
だから、「ペンネーム」という薄い鎧だけを纏って、普段なら人に話すことのない過去まで書いた。
もしもリア友にわたしのアカウントがバレた時に、絶対読まれたくないのは、創作物語じゃなくて、その経験ありきのエッセイの方だ。
文章を書くことで素直になる以前に、文章を書くために全裸になっている、そのエッセイだ。


読みたくなるエッセイを書ける人は、インプットが上手だ。
日常の見逃しがちなことに感情や思考のアンテナを張って、それを頭の中にインプット出来る。感情にインプットした経験や出来事が結びつく。そして、インプットした出来事やその時考えたことを、上手に引き出して書くことができる人。
わたしは、特別な出来事じゃなくて、日常に起こったことを雑談みたいなテンションで教えてくれてるようで、でもその中にその人の思考や上質な感情表現が織り込まれている、そんな文章を愛してやまない。


今年に入ってから、文章が読めなくなった。
心の低迷期なのか分からないけど、とにかく何かに焦っていて、感情などほとんどなかった。
その焦りの一つに、「書けない」があった。ちゃんとしたライターでもなければ、ほとんど読まれない文章をひっそり書いているだけのわたしが、「書けない」ことにこんなに真剣に悩む恥ずかしさもあった。
仕事のことも人間関係のことも悩むことはもっとたくさんあるはずなのに、頭の片隅でずっと「書けない」がモヤモヤしていた。
この「書けない」は、「読まれる文章を書けない」じゃなくて、本当に何も思い浮かばない「書けない」だった。
好きな作家の本を読めば、触発されて書きたい欲も出てくるはずなのに、やっぱり書くべき人と書くべきでない人というのがいるなと思って余計に嫌になったり、昔書いた自分の創作物語を読んでは、「あぁ、自分の世界に酔ってんなぁ」って思ったり、とにかく最悪だった。
今までだったら、少し経ったら、表現したい感情だったり、誰かに言いたい事がむくむくと出てきて、夜の少し感傷的になっている時間に書き始めれば、何かしら書けていた。
でも、それすらしたくないと思ったのは、もう創作への熱を失ったからだった。ただ日常で起きたことを書き連ねることすらしたくなかった。
2021年4月27日「燻っている感情の爆発の仕方が知りたい」
日々の雑記帳代わりにしているiPhoneのメモ帳に一言だけ書いてあった。
燻って、爆発する前に燃え尽きそうだ。
エモをテーマにした映画とか創作物も、どうしてか受けつけなかった。
エモってemotional(感情的、情状的)の略だけど、感情っていう弱い部分を、狙って動かしてくる感じが嫌だった。
同じ経験がある人だけが、その記憶の中の経験の柔らかい部分を鷲掴みにされて心が動かされたと思うエモ。「分かる〜」って思わなきゃ、エモいって思えない。
そして何よりその「エモ」が「バズる」のてっぱんであることも。


「書けない」「書きたい」「読まれたい」「でもわたしには書く才能がない」の間でウロウロ迷子になり続けて、どうにかしなきゃと思って
『バズる文章の書き方』の本だったり、短期間のライティング講座を受講してみた。
文章を書く基本はよく分かったけど、「狙いを定める」がどうしても無理だった。
読んでもらえる文章とは、ターゲット、伝えたいことを絞って確実に届く文章を書くことだ。
わたしの感情が赴くままに書いていた今までのスタンスは「バズる鉄則」の真逆にいた。
伝えようとしなければ、伝わらない。
策略を練らなければ読んでもらえない。
特別な才能があれば別だけど、ごく一般人が読んでもらえる文章を書こうとすれば、少なくとも市場調査とテクニックを兼ね備える事が必要だった。


出会った瞬間好きになって、今まで更新されるたびにほとんど漏らさずに読み続けている文章を書く人がいる。その人の文章は、狙って書いたわけでも頑張って構成を練ったわけでもなくて淡々と日常を綴っているように見える。
でもその人の文章だけはどうしてか、心が疲れていても、すさんでいても、すっと入ってくる。そう感じるのはわたしだけじゃなくて、きっとたくさんの人がその人の文章が更新されるのを密かに楽しみにしているだろうなと思う。


これからわたしはどうしていこうか。
noteを始めた当初、自分のスタンスを貫いて小説を書いていた人と出会った。
その人の文章は、とにかく透き通っていて、とにかくブレなかった。noteを辞めたその人は、未来の道が見えていて、さらなるステップに進むためにnoteから次の場所へ移ったのだろう。
最近、色んな人がちらほらとnoteを辞めていくけど、書くことを放棄するわけではない。
「noteで書く」ということを辞めるだけだ。


noteも書くことも、そろそろ潮時かもしれないって思っていたとき、偶然、わたしがめちゃくちゃ好きな人が、「これ好きなんだよね〜 わたしの気の抜けたときの文章に似ていると思う」と言って、くどうれいん著の『うたうおばけ』を教えてくれた。
教えてもらった次の日は金曜日で、夜更かしできるその夜にどうしても読みたいと思って、仕事帰りに書店へ駆け込んだ。


くどうれいんは短歌や俳句の人だと思っていたけど、エッセイもこんな風に書けるんだって思った。くどうれいんの文章は、友達に話しかけられてるみたいなテンションで、その中に彼女の思考や表現が美しく織り込まれていて、さらに言葉のチョイスもぴったり好きで、まさにわたしの読みたかった文章だった。
そして何より書きたかった文章だった。


この文章に出会ってから、しばらく考えた。
わたしはこれから何がしたいんだろう。
どうやって向き合って、どうやって書いていけばいいんだろう。
趣味で書いていれば、いつか、書くことを辞める日が来るのかもしれない。生活が忙しくなったり、熱が冷めていつのまにか止める。
でも、書くことを諦めきれないわたしがいる。
いつか、書くことで何者かになりたいわたしもいる。それが何者であるかは到底分からないけど、今はまだ、書くことへの執着心だけは確かなようだ。

 

多分これからも、バズる文章は書けない。

人の目を引きつける才能も、コンスタントに書き続けられる持久力もまだ持っていない。

ずっとこのまま燻ってるのかもしれないし、新たなスタンスを見つけられるのかもしれない。

noteにい続けられるのかも分からない。

でも、全てを吐き出して整理したら、もう少しだけ書くことは諦めたくないって5000文字を書きながらやっと思った。

 

 

 

 

 

ファイト

今、非常に生き急いでいる。生き急ぐ理由は、特に思いつかない。
ただ、止まったら死ぬマンボウみたいな感情。あ、今流行りのマンボウじゃなくて、水族館にいるマンボウの方だ。
やりたいと思うことはどんどん浮かぶ。そして、それを始めるスタートダッシュの行動力だけは凄まじい。なのに、時間をうまく使うことが下手くそだし、とにかく体力がない。
世の中の原理として、スキマ時間を上手に使える人はどんどん先に行く。
今走り出していることは、仕事の試験勉強(簡単に言うと、ピチューからピカチューになるための試験。ここで、ピカチューしか思い浮かばない程度にポケモン知らなさすぎる)とダイエット、英会話、書くための勉強。
試験勉強は目指す仕事をやるために絶対通らなきゃいけない道で、英会話は外国人の当事者が来た時にタジタジだったわたしに対して、流暢な英語で代わりに対応してくれた検察のお姉さんがかっこよすぎて主任に報告したら、「うちにそのレベルを求めるのはやっぱり無理なのかな?」って冗談混じりで言われたのがすごく悔しかったから。いや、わたしも出来るようになるしかなくない?って思った。書くことは、自分が好きなことを嫌いになりたくなかったから。


でも、どれもちゃんと出来てない。
特に仕事の試験勉強は最優先で全力で走らなきゃいけないのに、全力で走ってない。
退勤後に家に帰る前にカフェで勉強する1時間半を除いても、毎日通勤で電車に乗ってる時間、往復合わせて3時間、お昼ご飯食べた後のお昼休みの残り10分間、寝る前の1時間の合わせて約4時間。実は時間はこんなにある。
でも、体力が追いつかない。
電車に乗ってる時間は実質睡眠時間だし、お昼休みの残りの10分間も睡眠時間。
何でこんなに寝ても寝ても眠たいんだろう。
一応夜は5時間半から6時間は寝ているはずなのに、身体が脳のどちらかが休まるのが追いついていない。
ショートスリーパーになれたら、もっとやれることが多かったかもしれない。
人間寝なきゃダメだし、特に、自分の免疫に頼り切るしかないコロナのご時世で睡眠時間を削ることはご法度だけど、夜以外に寝るのはコスパが悪すぎる。
同期の子が、朝1時間早く来たり、昼休みに勉強してるのを見て勝手に焦る。彼女は「スキマ時間ほど活用しなきゃね」とよく言っていて、すごく勉強のできる頭のいい子だけど(人柄も良くて大好きな同期)、こういう時間をうまく活用できるからこそなんだと思った。
そういえば、受験の時も、徹夜とかはしてなくてめちゃくちゃ追い込んでるわけでもないのにきっちり点数を取る子は、電車とかちょっとしたスキマ時間にスイッチがちゃんと入る子だった。わたしは、寝てる場合じゃなかった。

やるしかない。

 


わたしの人生は、ほとんど悔しさから成り立ってきた。残念ながら、何でもそつなくこなせるタイプとは真逆にいて、常に出来る誰かを羨みながら出来ない自分を憎んできた。
汗を流しながらもう無理って思いながら、高すぎる段差を一段登った横を、涼しげに駆け上がっていく人は何人もいて、それを眺めながらいつも泣く。
そんな学生時代だったけど、今よりも何十倍も生きている気がした。
やりたいのに、わたしには出来ないから仕方ないかって思ってるのがダサすぎる。
大人になると、変に人生を悟って、汗を流すことを嫌って、もがき苦しまなくなるのどうしてなんだろう。
こんな文章を書いてるのも、朝になって出勤途中の社会人モードの頭で見たら、あぁ何書いてんだろってきっと思っちゃう。
上手にさぼる大人がもてはやされるし、遊べる人がかっこよく見えるし、努力を見せずにそつなくこなすのがかっこいい。世間の目を気にして失敗が怖くなるし、努力してると「意識高い系」とか言われる。


でも、だるいなって言いながら、本当は不完全燃焼な悔しさをビールで流し込むよりも、全力投球して、出来ない!悔しい!やりたい!って泣ける大人でいたいな。
ファイト!