書くことを辞めるタイミングが分からなかった

noteを辞めるタイミングが分からない。それは、書くことを辞めるときだろうか。「辞めるタイミングを考える」って、アイドルのグループ卒業とか今の会社を辞めて転職しようとかそんな時に使う言葉だと思っていた。
わたしはまだ、「辞めるタイミングを考える」をしたことがなかった。
大抵、わたしが何かを辞めるときは、忙しくなって都合が合わなくなった習い事だったり、もういいかなってゴミ箱に捨てるイメージで自分から切り離す恋愛だったり、自然のうちに疎遠になっていく連絡の取り合いだったり、自分から辞めるタイミングなんて選べるものじゃなかった。
習い事は仕方なく辞めるだけど、他は「止める」に近い辞めるだと思う。

みんながパラパラとnoteを辞め始める。
だからといって、「わたしもー」って続きたいわけではない。
そんな気軽に便乗出来ないほど、約2年間で書き溜めてきた270以上の記事と、自分の文章を誰かに読んでもらえる場所、そしてそこで出会った友達、そんな場所への愛着というか、重みがある。
未練だろうか。まだ、過去のことにしたくないとしがみつく恋愛みたいな感情だろうか。
友達は、もしかしたらnoteを辞めてしまった後も、ツイッターとかLINEを通じて関わり続けられるのかもしれない。でも、基盤にあった「書くことで繋がる」が無くなってしまう先を、まだ考えきれていない。


noteを辞めたら、自分の文章を表に出すプラットホームを失って、わたしはもう書かなくなるだろうと思う。別に自分の手元のノートに日記を勝手に書いておけばいいんだけど、誰かに自分の文章を読んでもらう感覚を一度覚えたら、もう独り言には戻れない。
そのくせに、最近何にも書けなくなった。
書きたいことが浮かんで、iPhoneのメモ帳(いつもメモ帳に下書きを書いている)を開いて文字を数行打ち出すと、書き出しだけで、もういいやってなる。下手くそなのだ。
わたしの家族や友達ならば、「わたしが書いた」という理由で読んでくれるかもしれないけど、全く知らない他人が文章を読んでくれるきっかけとは、書き出しの数行だけで「面白そう」と思わせるしかない。


書きたいと読まれたいを天秤にかけたとき、「どうせ書くなら読まれたい」という曖昧な答えに逃げてしまう。わたしは、noteを始めた当初から書きたいから書き続けると言ってきた。でも、どうして書きたいのかを考えたら、「書きたい」という表向きの理由を纏った本当の欲望は、「多くの人に読まれる文章を書ける書き手になりたい」だった。
何かを書く人なら当然の欲求なのかもしれない。書くことよりも読まれることに達成感と自己肯定感を感じるようになった。
「書きたいのなら、書き続けたほうがいいよ」って言ってくれた人がいる。
読まれたいと願うのも、読まれるための文章を書くのも全く悪いことじゃない。むしろ、それは書くのに必要なモチベーションだ。
でも、わたしは欲求だけはもっているのに、「読まれるものを書くための努力をする」という固い意思はもっていなかった。


2年前はよく、創作の短編小説を書いていた。
言葉で言い表せない感情を、カタチにして誰かと共有したかった。
例えば、「嬉しい」という感情を表す色は?と聞いたら、その色がみんな一致しないように、感情はその人のバックグラウンドを含む色で表される。だから、わたしは、哀しいとも嬉しいとも寂しいとも一言で言い表せる感情が混ざり合った「切なさ」という抽象的な感情が、言い表せない感情を表すのにちょうど良くて、その心地の良さが好きだった。
創作の小説を使ってその複雑な「切なさ」をどう伝えるかに必死になっていたし、わたしが狙ったのとは全く違う感情を受け取った感想をもらえることが嬉しかったし、それこそが「書きたい」ものだった。


でも、わたしの書いたnoteでいちばん伸びたのは過去の痛みを書いたエッセイだった。
そのnoteだけは、もう一切伸びなくなった他のnoteに群を抜いて、今でもそれなりに静かに伸び続けている。
わたしの経験を書いたものが誰かを苦しみから救うのならばそれはいいことだ。きっと、苦しんでた過去のわたしがそのnoteを読んだらそれに救われることだってあっただろう。
ただ、今のわたしがそのnoteに救われないのは、正直に言うと、それを読んでくれた誰かを救う目的で書いたからじゃないからだ。
一時期、「note編集者がオススメする今日の注目記事」をくまなく読んで、読まれる文章とは、みんなが共感したり明確な感想を持ちやすい、インパクトのある体験談を書いたエッセイだった。わたしの分析が、偏見と語弊だらけなのは許してほしい。
でも、わたしの270あまりの投稿の中で、閲覧数とスキの数がどんどん伸びるのは、ダントツに「経験ありきの文章」を書いたnoteだった。


経験ありきのnoteを書くために、今までの経験を吐き出すようにエッセイとして綴った。
エッセイといっても、エッセイのお作法なんて全く知らないから、ほぼ日記に近い形でしか書けなかった。
でも、経験してきた痛みも境遇も恋愛も、ありきたりすぎて、わたしよりももっとすごい経験を持っている人なんて、溢れかえっている。
経験を吐き出す文章を書いて伸びた閲覧数を眺める、また、ネタとなる経験を思い出して書く、を繰り返すうちに次第に書くことがなくなって、それでも絞り出そうとしていると、自分を削り取っていく錯覚に陥った。
読まれる文章を書くためには、経験を、赤裸々に詳細に書いた方が良い。暴露本や本音を書いたエッセイのほうがウケることは知っている。
だから、「ペンネーム」という薄い鎧だけを纏って、普段なら人に話すことのない過去まで書いた。
もしもリア友にわたしのアカウントがバレた時に、絶対読まれたくないのは、創作物語じゃなくて、その経験ありきのエッセイの方だ。
文章を書くことで素直になる以前に、文章を書くために全裸になっている、そのエッセイだ。


読みたくなるエッセイを書ける人は、インプットが上手だ。
日常の見逃しがちなことに感情や思考のアンテナを張って、それを頭の中にインプット出来る。感情にインプットした経験や出来事が結びつく。そして、インプットした出来事やその時考えたことを、上手に引き出して書くことができる人。
わたしは、特別な出来事じゃなくて、日常に起こったことを雑談みたいなテンションで教えてくれてるようで、でもその中にその人の思考や上質な感情表現が織り込まれている、そんな文章を愛してやまない。


今年に入ってから、文章が読めなくなった。
心の低迷期なのか分からないけど、とにかく何かに焦っていて、感情などほとんどなかった。
その焦りの一つに、「書けない」があった。ちゃんとしたライターでもなければ、ほとんど読まれない文章をひっそり書いているだけのわたしが、「書けない」ことにこんなに真剣に悩む恥ずかしさもあった。
仕事のことも人間関係のことも悩むことはもっとたくさんあるはずなのに、頭の片隅でずっと「書けない」がモヤモヤしていた。
この「書けない」は、「読まれる文章を書けない」じゃなくて、本当に何も思い浮かばない「書けない」だった。
好きな作家の本を読めば、触発されて書きたい欲も出てくるはずなのに、やっぱり書くべき人と書くべきでない人というのがいるなと思って余計に嫌になったり、昔書いた自分の創作物語を読んでは、「あぁ、自分の世界に酔ってんなぁ」って思ったり、とにかく最悪だった。
今までだったら、少し経ったら、表現したい感情だったり、誰かに言いたい事がむくむくと出てきて、夜の少し感傷的になっている時間に書き始めれば、何かしら書けていた。
でも、それすらしたくないと思ったのは、もう創作への熱を失ったからだった。ただ日常で起きたことを書き連ねることすらしたくなかった。
2021年4月27日「燻っている感情の爆発の仕方が知りたい」
日々の雑記帳代わりにしているiPhoneのメモ帳に一言だけ書いてあった。
燻って、爆発する前に燃え尽きそうだ。
エモをテーマにした映画とか創作物も、どうしてか受けつけなかった。
エモってemotional(感情的、情状的)の略だけど、感情っていう弱い部分を、狙って動かしてくる感じが嫌だった。
同じ経験がある人だけが、その記憶の中の経験の柔らかい部分を鷲掴みにされて心が動かされたと思うエモ。「分かる〜」って思わなきゃ、エモいって思えない。
そして何よりその「エモ」が「バズる」のてっぱんであることも。


「書けない」「書きたい」「読まれたい」「でもわたしには書く才能がない」の間でウロウロ迷子になり続けて、どうにかしなきゃと思って
『バズる文章の書き方』の本だったり、短期間のライティング講座を受講してみた。
文章を書く基本はよく分かったけど、「狙いを定める」がどうしても無理だった。
読んでもらえる文章とは、ターゲット、伝えたいことを絞って確実に届く文章を書くことだ。
わたしの感情が赴くままに書いていた今までのスタンスは「バズる鉄則」の真逆にいた。
伝えようとしなければ、伝わらない。
策略を練らなければ読んでもらえない。
特別な才能があれば別だけど、ごく一般人が読んでもらえる文章を書こうとすれば、少なくとも市場調査とテクニックを兼ね備える事が必要だった。


出会った瞬間好きになって、今まで更新されるたびにほとんど漏らさずに読み続けている文章を書く人がいる。その人の文章は、狙って書いたわけでも頑張って構成を練ったわけでもなくて淡々と日常を綴っているように見える。
でもその人の文章だけはどうしてか、心が疲れていても、すさんでいても、すっと入ってくる。そう感じるのはわたしだけじゃなくて、きっとたくさんの人がその人の文章が更新されるのを密かに楽しみにしているだろうなと思う。


これからわたしはどうしていこうか。
noteを始めた当初、自分のスタンスを貫いて小説を書いていた人と出会った。
その人の文章は、とにかく透き通っていて、とにかくブレなかった。noteを辞めたその人は、未来の道が見えていて、さらなるステップに進むためにnoteから次の場所へ移ったのだろう。
最近、色んな人がちらほらとnoteを辞めていくけど、書くことを放棄するわけではない。
「noteで書く」ということを辞めるだけだ。


noteも書くことも、そろそろ潮時かもしれないって思っていたとき、偶然、わたしがめちゃくちゃ好きな人が、「これ好きなんだよね〜 わたしの気の抜けたときの文章に似ていると思う」と言って、くどうれいん著の『うたうおばけ』を教えてくれた。
教えてもらった次の日は金曜日で、夜更かしできるその夜にどうしても読みたいと思って、仕事帰りに書店へ駆け込んだ。


くどうれいんは短歌や俳句の人だと思っていたけど、エッセイもこんな風に書けるんだって思った。くどうれいんの文章は、友達に話しかけられてるみたいなテンションで、その中に彼女の思考や表現が美しく織り込まれていて、さらに言葉のチョイスもぴったり好きで、まさにわたしの読みたかった文章だった。
そして何より書きたかった文章だった。


この文章に出会ってから、しばらく考えた。
わたしはこれから何がしたいんだろう。
どうやって向き合って、どうやって書いていけばいいんだろう。
趣味で書いていれば、いつか、書くことを辞める日が来るのかもしれない。生活が忙しくなったり、熱が冷めていつのまにか止める。
でも、書くことを諦めきれないわたしがいる。
いつか、書くことで何者かになりたいわたしもいる。それが何者であるかは到底分からないけど、今はまだ、書くことへの執着心だけは確かなようだ。

 

多分これからも、バズる文章は書けない。

人の目を引きつける才能も、コンスタントに書き続けられる持久力もまだ持っていない。

ずっとこのまま燻ってるのかもしれないし、新たなスタンスを見つけられるのかもしれない。

noteにい続けられるのかも分からない。

でも、全てを吐き出して整理したら、もう少しだけ書くことは諦めたくないって5000文字を書きながらやっと思った。