戯言

深い呼吸を忘れていることにふと気づく瞬間がある。

最近「もう諦めた」と口にすることが増えた。

諦めないうちは、頑張ることに脳内が占領されて、失敗がとてつもなく怖くなるけど、諦めてしまって最初から何も無かったことにしてしまえば、もう考えなくて良くなる。

歳をとるごとに、もう前だけを見て突っ走ることが出来るだけの愚直さが無い。

それでも、本心は諦めきれていないのから、諦める努力をすることの方が苦しいのかもしれない。

ただ、わたしには出来ないことだと言い聞かせていればいつの間にか順応してしまう。

 

3年前の情熱は何だったんだろう。

頭には文章にしたい感情に溢れていて、感受性に溢れていて、目にするもの全てが創作の材料だった。

そんなことを言うと、ロマンチストみたいだけど、一度でも物語を書くことに快感を覚えたことがある人なら割と分かる感覚だと思う。

でも、歳を重ねるごとに、感受性を研ぎ澄ましながら生きることの愚かさがよく分かるようになった。

綺麗な夕焼けを見て涙を流したり、じっと月を眺めて考え事をしたり、切ないという感情を細かく分析してみたり、そんなことをしている間に、自分だけひとり置いていかれる感覚に近い。

 

自分の内面に目を向けて、自分と向き合うことが怖い。

受け入れ難い現実が目の前に現れたときに、ただその事実を受け入れるということだけでなくて、自分の感受性のフィルターを通して感情をいちいち受け入れる作業をしていたら苦しさが倍増する。

ベルトコンベアに載せられた事実をただ見送るように処理していけるならば、毎日が淡々と過ぎ去って行ける。

事実の表面だけを汲み取って「仕方ない」と流していける強さが欲しいけど、それが出来ないならばなるべく考えずに感じないでいることだ。

 

外に出ると、ちゃんと笑えて明るく元気に過ごせるはずなのに、自分の内面の扉を開けたら、どこか小さなところから湧き出る、誰かを羨んだり自分を卑下する感情と向き合わないといけないことを知っている。

それは全部、ほんとは誰かへの嫉妬心なんじゃなくて、自分への不満なのだ。

あれだけたくさんの感情を書き連ねてもなお、わたしの内面は自分への罪悪感でまみれている。

自分を肯定するという目標は、自分が努力してやっと得た「結果」のみによって癒されていく。

そんな自分のつまらなさがとてつもなく嫌だった。

 

努力しなくてもしたたかに欲しいものを手に入れられるような人生を送りたかったし、他人任せにしてニコニコ笑っていられるような女の子でいたかった。

誰かを本当に愛せて、誰かについていって、流されるがままの人生を送ることが幸せだと思える人に心からなりたかった。

目の前にあるものに喜べて、些細な幸せで心を満たせる人になりたかった。

今の自分と正反対の人間像を羅列したけど、

わたしがなりたいのは本当はそんな人達なのかもしれない。

 

自己満足で良かったはずのものが、どんどん自分の内側にだけ重く響くようになった。

 

人生に焦りがある。もっとやらなきゃ、もっと頑張らなきゃっていつも苦しい。

それだけ真っ直ぐ生きているということだ。

 

どうして生きてるのか、何のために生きてるのか。そんなことがずっと疑問で、ひたすら考えてきたけど、そんなの一生分かるはずがない。死ぬ時ですらちゃんと分かるのかは分からない。

「あなたはこんなことをするために生まれてきました」って言われたら、そんな使命感が息苦しくなるだろうし、「あなたがいないとダメ」って言われたら、わたしは自分のために生きなくなる。「いつでもどこにでも行っていいよ」って言われたら居場所を求めて彷徨う。

私だけじゃなくてきっとみんなそんな感情を持ってる。

 

最近、「これはあなたの人生だよ」と言われる言葉が重く響くようになった。

今までは誰かに評価されたい一心で生きてきたけど、評価されることで満たされるのは一時の感情だけだと気付いた。

そう、わたしの人生なのだ。

真正面から傷つきに行くのも、たった一言諦めると口にしてそのまま放り投げるのもわたしの人生だ。

 

文章を書かなくなってから、わたしは本当はネガティブな感情も、過去の傷を掘り返すことも、誰かを安心させるような文章も、無理矢理ポジティブに締める文章も書きたくないんだと気付いた。

誰かの心を掴むアイデアも技術も持ち合わせていない。

だから、もう誰かに読んでもらうことは諦めた。

 

本当は深く傷つくことよりも、燻った感情をずっと握りしめている方が苦しいんだと気付いた。

凝り固まった自分の価値観を動かしたいなら、深く傷つきに行くのも悪くないのかもしれない。