なんでもないこと

今日は、2時間分会社をサボって早退してきた。何か心が無理だった。
何が無理かと聞かれたら、抽象的な表現しか出来ないほど、具体的な無理な出来事が出てこない。小さい子のよく分からないグズ期と一緒だと思う。
心が無理なのと、今の仕事がめちゃくちゃ暇で、早退しても何ら構わないという、早退するしかない環境が整っていた。

わたしはとにかく静かな純喫茶みたいなところで、ひっそりと本でも読んで心を落ち着かせたかった。それなのに、今、駅からちょっと歩いたところの狭いミスドにいる。
静かな純喫茶は駅から遠いし、そこに行くまでに歩く元気が無かった。
せっかくならいつも食べないドーナツでも食べようと思ったのに、後ろの人に急かされるように咄嗟にトレーに取ったのは、いつものエンゼルクリームだった。お飲み物はどうしますか?って聞かれて、迷ったときのいつもの癖でアイスカフェラテにしたけど、店内は空調が効きすぎていて、アイスを選んだ自分を飲み始め3秒で恨んだ。
ミスド、まじでJKが多すぎる。
何があったのか知らないけど、泣いてるひとりの背中をさすってる集団の斜め前に、コイバナでめちゃくちゃ盛り上がってる集団がいる。
このふたつは別の集団で、どちらも同じように笑うときは勢いつけて手を叩く。スタンディングオベーションか。
今更、JKのノリは無理だなと思った。でもよく考えたら、自分がJKだったときから無理だった。


この席からは、顔を上げるだけで店のガラス張りの自動ドアの向こうがよく見える。
確か今日の天気予報は夕方から雨だったのに、傘を持ってない。いつ降るのかな〜って外行く人が傘をさし始めていないか2分に1回は見てしまう。今にも雨が降りそうだから早く店を出れば良いのに、せっかく入ったからすぐには出られないし、アイスカフェラテはMサイズ。
実際雨が降ったらやばいのに、泣き出しそうな空の色ってこういうことかって、そういう悠長なことばかり浮かぶ。
今日は濡れたい気分だと思っても、いざ濡れたら濡れたでもっと不機嫌になる。


本当に何がしたいんだろうと思う。
何となくもう無理だったから有給を2時間分消費したのに、早く家に帰るわけでもなく騒がしいミスドで燻ってる。


本当は今日、好きなアーティストのライブだった。倍率高いのに当選してて、行ったら今の憂鬱な気分が一気に晴れる予定だった。
行こかな、行ってもいいかなって迷い続けて、
でも、こんなご時世で、わたしの行きたい気持ちだけで、人が多い場所に行ける気がしなかった。家族に行かないでって言われたら、行けなかった。
後ろめたいことをする勇気がとことんない。
ずっと楽しみだった予定がどんどんスケジュール帳から消えていくし、こんな時に話したい人にご飯行こって誘えない。でも、みんなそんな気持ちを抱えて日常をやり過ごしてるのに、わたしだけが文句を口に出せない。
仕方ないことを仕方ないとちゃんと諦めがつくのが大人だと思った。


ミスドは結局、周りの楽しそうな騒音に負けて、すぐに出てきてしまった。
大型商業施設をブラブラ散歩することにしたけど、仕事しか予定がないのに新しく服を買う気分になれないし、雑貨もまったく惹かれない。
せめて心を救うために辿り着く最終地点はいつも本屋さんだった。
最近は、詩に惹かれる。
現代は、エッセイをぎゅぎゅっと濃縮した詩を書く詩人が多い。詩を拡大トリミングして書かれたエッセイは、シンプルな構造だからこそ言葉選びの上手さが際立つ。
パラパラと立ち読みしたら、やっと少し心がかき乱された感じがしたから、今日わたしが、わたしに買い与えるべきものはこれだと思った。
工藤玲音と最果タヒの著書を1冊ずつ買った。

 


そういえば最近、仕事のデスクに、『シンプルに考える』とでかでかと書いた付箋を貼り付けている。
わたしの思考は無駄が多いからだ。
文章でもなんでも「明瞭簡潔」が好かれるというのに、ゴテゴテに飾り付けされたクリスマスツリーみたいに考えること、言いたいことがどんどん膨らんでいく。
「クリスマスツリーは、クリスマスの為に飾り付けをした木」これでいいんだ。
「クリスマスツリー(あ、クリスマスツリーってどこが発祥なんだろう)は、クリスマスの為に(そういえば外国ではプレゼントをツリーの下に置くのになんで日本は枕元なんだろ)飾り付け(てか電飾とか飾りが重すぎて枝折れないのかな)をした木(モミの木だっけ?)」じゃないんだよ。
その点、上手な人が書く詩って、言いたいことがパン!パン!パン!って出てきて最後にジュワッていう余韻を残す。
これがシンプルアンドエモなのか?


でも、シンプルにこだわるゆえに、最近ショートヘアですらちょっと伸びると鬱陶しくなってどんどんショートにしてるんだけど、気分転換に振りかけたヘアミストが、自分には全然香ってこないことに気がついた。
お気に入りのホワイトティーのヘアミスト。
髪が長かった頃、結んでいた髪の毛を解いた時に、一日中髪の毛の内側に閉じ込めていた残り香が、ふわっと香ってくる瞬間が好きだったのに。

書くことを辞めるタイミングが分からなかった

noteを辞めるタイミングが分からない。それは、書くことを辞めるときだろうか。「辞めるタイミングを考える」って、アイドルのグループ卒業とか今の会社を辞めて転職しようとかそんな時に使う言葉だと思っていた。
わたしはまだ、「辞めるタイミングを考える」をしたことがなかった。
大抵、わたしが何かを辞めるときは、忙しくなって都合が合わなくなった習い事だったり、もういいかなってゴミ箱に捨てるイメージで自分から切り離す恋愛だったり、自然のうちに疎遠になっていく連絡の取り合いだったり、自分から辞めるタイミングなんて選べるものじゃなかった。
習い事は仕方なく辞めるだけど、他は「止める」に近い辞めるだと思う。

みんながパラパラとnoteを辞め始める。
だからといって、「わたしもー」って続きたいわけではない。
そんな気軽に便乗出来ないほど、約2年間で書き溜めてきた270以上の記事と、自分の文章を誰かに読んでもらえる場所、そしてそこで出会った友達、そんな場所への愛着というか、重みがある。
未練だろうか。まだ、過去のことにしたくないとしがみつく恋愛みたいな感情だろうか。
友達は、もしかしたらnoteを辞めてしまった後も、ツイッターとかLINEを通じて関わり続けられるのかもしれない。でも、基盤にあった「書くことで繋がる」が無くなってしまう先を、まだ考えきれていない。


noteを辞めたら、自分の文章を表に出すプラットホームを失って、わたしはもう書かなくなるだろうと思う。別に自分の手元のノートに日記を勝手に書いておけばいいんだけど、誰かに自分の文章を読んでもらう感覚を一度覚えたら、もう独り言には戻れない。
そのくせに、最近何にも書けなくなった。
書きたいことが浮かんで、iPhoneのメモ帳(いつもメモ帳に下書きを書いている)を開いて文字を数行打ち出すと、書き出しだけで、もういいやってなる。下手くそなのだ。
わたしの家族や友達ならば、「わたしが書いた」という理由で読んでくれるかもしれないけど、全く知らない他人が文章を読んでくれるきっかけとは、書き出しの数行だけで「面白そう」と思わせるしかない。


書きたいと読まれたいを天秤にかけたとき、「どうせ書くなら読まれたい」という曖昧な答えに逃げてしまう。わたしは、noteを始めた当初から書きたいから書き続けると言ってきた。でも、どうして書きたいのかを考えたら、「書きたい」という表向きの理由を纏った本当の欲望は、「多くの人に読まれる文章を書ける書き手になりたい」だった。
何かを書く人なら当然の欲求なのかもしれない。書くことよりも読まれることに達成感と自己肯定感を感じるようになった。
「書きたいのなら、書き続けたほうがいいよ」って言ってくれた人がいる。
読まれたいと願うのも、読まれるための文章を書くのも全く悪いことじゃない。むしろ、それは書くのに必要なモチベーションだ。
でも、わたしは欲求だけはもっているのに、「読まれるものを書くための努力をする」という固い意思はもっていなかった。


2年前はよく、創作の短編小説を書いていた。
言葉で言い表せない感情を、カタチにして誰かと共有したかった。
例えば、「嬉しい」という感情を表す色は?と聞いたら、その色がみんな一致しないように、感情はその人のバックグラウンドを含む色で表される。だから、わたしは、哀しいとも嬉しいとも寂しいとも一言で言い表せる感情が混ざり合った「切なさ」という抽象的な感情が、言い表せない感情を表すのにちょうど良くて、その心地の良さが好きだった。
創作の小説を使ってその複雑な「切なさ」をどう伝えるかに必死になっていたし、わたしが狙ったのとは全く違う感情を受け取った感想をもらえることが嬉しかったし、それこそが「書きたい」ものだった。


でも、わたしの書いたnoteでいちばん伸びたのは過去の痛みを書いたエッセイだった。
そのnoteだけは、もう一切伸びなくなった他のnoteに群を抜いて、今でもそれなりに静かに伸び続けている。
わたしの経験を書いたものが誰かを苦しみから救うのならばそれはいいことだ。きっと、苦しんでた過去のわたしがそのnoteを読んだらそれに救われることだってあっただろう。
ただ、今のわたしがそのnoteに救われないのは、正直に言うと、それを読んでくれた誰かを救う目的で書いたからじゃないからだ。
一時期、「note編集者がオススメする今日の注目記事」をくまなく読んで、読まれる文章とは、みんなが共感したり明確な感想を持ちやすい、インパクトのある体験談を書いたエッセイだった。わたしの分析が、偏見と語弊だらけなのは許してほしい。
でも、わたしの270あまりの投稿の中で、閲覧数とスキの数がどんどん伸びるのは、ダントツに「経験ありきの文章」を書いたnoteだった。


経験ありきのnoteを書くために、今までの経験を吐き出すようにエッセイとして綴った。
エッセイといっても、エッセイのお作法なんて全く知らないから、ほぼ日記に近い形でしか書けなかった。
でも、経験してきた痛みも境遇も恋愛も、ありきたりすぎて、わたしよりももっとすごい経験を持っている人なんて、溢れかえっている。
経験を吐き出す文章を書いて伸びた閲覧数を眺める、また、ネタとなる経験を思い出して書く、を繰り返すうちに次第に書くことがなくなって、それでも絞り出そうとしていると、自分を削り取っていく錯覚に陥った。
読まれる文章を書くためには、経験を、赤裸々に詳細に書いた方が良い。暴露本や本音を書いたエッセイのほうがウケることは知っている。
だから、「ペンネーム」という薄い鎧だけを纏って、普段なら人に話すことのない過去まで書いた。
もしもリア友にわたしのアカウントがバレた時に、絶対読まれたくないのは、創作物語じゃなくて、その経験ありきのエッセイの方だ。
文章を書くことで素直になる以前に、文章を書くために全裸になっている、そのエッセイだ。


読みたくなるエッセイを書ける人は、インプットが上手だ。
日常の見逃しがちなことに感情や思考のアンテナを張って、それを頭の中にインプット出来る。感情にインプットした経験や出来事が結びつく。そして、インプットした出来事やその時考えたことを、上手に引き出して書くことができる人。
わたしは、特別な出来事じゃなくて、日常に起こったことを雑談みたいなテンションで教えてくれてるようで、でもその中にその人の思考や上質な感情表現が織り込まれている、そんな文章を愛してやまない。


今年に入ってから、文章が読めなくなった。
心の低迷期なのか分からないけど、とにかく何かに焦っていて、感情などほとんどなかった。
その焦りの一つに、「書けない」があった。ちゃんとしたライターでもなければ、ほとんど読まれない文章をひっそり書いているだけのわたしが、「書けない」ことにこんなに真剣に悩む恥ずかしさもあった。
仕事のことも人間関係のことも悩むことはもっとたくさんあるはずなのに、頭の片隅でずっと「書けない」がモヤモヤしていた。
この「書けない」は、「読まれる文章を書けない」じゃなくて、本当に何も思い浮かばない「書けない」だった。
好きな作家の本を読めば、触発されて書きたい欲も出てくるはずなのに、やっぱり書くべき人と書くべきでない人というのがいるなと思って余計に嫌になったり、昔書いた自分の創作物語を読んでは、「あぁ、自分の世界に酔ってんなぁ」って思ったり、とにかく最悪だった。
今までだったら、少し経ったら、表現したい感情だったり、誰かに言いたい事がむくむくと出てきて、夜の少し感傷的になっている時間に書き始めれば、何かしら書けていた。
でも、それすらしたくないと思ったのは、もう創作への熱を失ったからだった。ただ日常で起きたことを書き連ねることすらしたくなかった。
2021年4月27日「燻っている感情の爆発の仕方が知りたい」
日々の雑記帳代わりにしているiPhoneのメモ帳に一言だけ書いてあった。
燻って、爆発する前に燃え尽きそうだ。
エモをテーマにした映画とか創作物も、どうしてか受けつけなかった。
エモってemotional(感情的、情状的)の略だけど、感情っていう弱い部分を、狙って動かしてくる感じが嫌だった。
同じ経験がある人だけが、その記憶の中の経験の柔らかい部分を鷲掴みにされて心が動かされたと思うエモ。「分かる〜」って思わなきゃ、エモいって思えない。
そして何よりその「エモ」が「バズる」のてっぱんであることも。


「書けない」「書きたい」「読まれたい」「でもわたしには書く才能がない」の間でウロウロ迷子になり続けて、どうにかしなきゃと思って
『バズる文章の書き方』の本だったり、短期間のライティング講座を受講してみた。
文章を書く基本はよく分かったけど、「狙いを定める」がどうしても無理だった。
読んでもらえる文章とは、ターゲット、伝えたいことを絞って確実に届く文章を書くことだ。
わたしの感情が赴くままに書いていた今までのスタンスは「バズる鉄則」の真逆にいた。
伝えようとしなければ、伝わらない。
策略を練らなければ読んでもらえない。
特別な才能があれば別だけど、ごく一般人が読んでもらえる文章を書こうとすれば、少なくとも市場調査とテクニックを兼ね備える事が必要だった。


出会った瞬間好きになって、今まで更新されるたびにほとんど漏らさずに読み続けている文章を書く人がいる。その人の文章は、狙って書いたわけでも頑張って構成を練ったわけでもなくて淡々と日常を綴っているように見える。
でもその人の文章だけはどうしてか、心が疲れていても、すさんでいても、すっと入ってくる。そう感じるのはわたしだけじゃなくて、きっとたくさんの人がその人の文章が更新されるのを密かに楽しみにしているだろうなと思う。


これからわたしはどうしていこうか。
noteを始めた当初、自分のスタンスを貫いて小説を書いていた人と出会った。
その人の文章は、とにかく透き通っていて、とにかくブレなかった。noteを辞めたその人は、未来の道が見えていて、さらなるステップに進むためにnoteから次の場所へ移ったのだろう。
最近、色んな人がちらほらとnoteを辞めていくけど、書くことを放棄するわけではない。
「noteで書く」ということを辞めるだけだ。


noteも書くことも、そろそろ潮時かもしれないって思っていたとき、偶然、わたしがめちゃくちゃ好きな人が、「これ好きなんだよね〜 わたしの気の抜けたときの文章に似ていると思う」と言って、くどうれいん著の『うたうおばけ』を教えてくれた。
教えてもらった次の日は金曜日で、夜更かしできるその夜にどうしても読みたいと思って、仕事帰りに書店へ駆け込んだ。


くどうれいんは短歌や俳句の人だと思っていたけど、エッセイもこんな風に書けるんだって思った。くどうれいんの文章は、友達に話しかけられてるみたいなテンションで、その中に彼女の思考や表現が美しく織り込まれていて、さらに言葉のチョイスもぴったり好きで、まさにわたしの読みたかった文章だった。
そして何より書きたかった文章だった。


この文章に出会ってから、しばらく考えた。
わたしはこれから何がしたいんだろう。
どうやって向き合って、どうやって書いていけばいいんだろう。
趣味で書いていれば、いつか、書くことを辞める日が来るのかもしれない。生活が忙しくなったり、熱が冷めていつのまにか止める。
でも、書くことを諦めきれないわたしがいる。
いつか、書くことで何者かになりたいわたしもいる。それが何者であるかは到底分からないけど、今はまだ、書くことへの執着心だけは確かなようだ。

 

多分これからも、バズる文章は書けない。

人の目を引きつける才能も、コンスタントに書き続けられる持久力もまだ持っていない。

ずっとこのまま燻ってるのかもしれないし、新たなスタンスを見つけられるのかもしれない。

noteにい続けられるのかも分からない。

でも、全てを吐き出して整理したら、もう少しだけ書くことは諦めたくないって5000文字を書きながらやっと思った。

 

 

 

 

 

ファイト

今、非常に生き急いでいる。生き急ぐ理由は、特に思いつかない。
ただ、止まったら死ぬマンボウみたいな感情。あ、今流行りのマンボウじゃなくて、水族館にいるマンボウの方だ。
やりたいと思うことはどんどん浮かぶ。そして、それを始めるスタートダッシュの行動力だけは凄まじい。なのに、時間をうまく使うことが下手くそだし、とにかく体力がない。
世の中の原理として、スキマ時間を上手に使える人はどんどん先に行く。
今走り出していることは、仕事の試験勉強(簡単に言うと、ピチューからピカチューになるための試験。ここで、ピカチューしか思い浮かばない程度にポケモン知らなさすぎる)とダイエット、英会話、書くための勉強。
試験勉強は目指す仕事をやるために絶対通らなきゃいけない道で、英会話は外国人の当事者が来た時にタジタジだったわたしに対して、流暢な英語で代わりに対応してくれた検察のお姉さんがかっこよすぎて主任に報告したら、「うちにそのレベルを求めるのはやっぱり無理なのかな?」って冗談混じりで言われたのがすごく悔しかったから。いや、わたしも出来るようになるしかなくない?って思った。書くことは、自分が好きなことを嫌いになりたくなかったから。


でも、どれもちゃんと出来てない。
特に仕事の試験勉強は最優先で全力で走らなきゃいけないのに、全力で走ってない。
退勤後に家に帰る前にカフェで勉強する1時間半を除いても、毎日通勤で電車に乗ってる時間、往復合わせて3時間、お昼ご飯食べた後のお昼休みの残り10分間、寝る前の1時間の合わせて約4時間。実は時間はこんなにある。
でも、体力が追いつかない。
電車に乗ってる時間は実質睡眠時間だし、お昼休みの残りの10分間も睡眠時間。
何でこんなに寝ても寝ても眠たいんだろう。
一応夜は5時間半から6時間は寝ているはずなのに、身体が脳のどちらかが休まるのが追いついていない。
ショートスリーパーになれたら、もっとやれることが多かったかもしれない。
人間寝なきゃダメだし、特に、自分の免疫に頼り切るしかないコロナのご時世で睡眠時間を削ることはご法度だけど、夜以外に寝るのはコスパが悪すぎる。
同期の子が、朝1時間早く来たり、昼休みに勉強してるのを見て勝手に焦る。彼女は「スキマ時間ほど活用しなきゃね」とよく言っていて、すごく勉強のできる頭のいい子だけど(人柄も良くて大好きな同期)、こういう時間をうまく活用できるからこそなんだと思った。
そういえば、受験の時も、徹夜とかはしてなくてめちゃくちゃ追い込んでるわけでもないのにきっちり点数を取る子は、電車とかちょっとしたスキマ時間にスイッチがちゃんと入る子だった。わたしは、寝てる場合じゃなかった。

やるしかない。

 


わたしの人生は、ほとんど悔しさから成り立ってきた。残念ながら、何でもそつなくこなせるタイプとは真逆にいて、常に出来る誰かを羨みながら出来ない自分を憎んできた。
汗を流しながらもう無理って思いながら、高すぎる段差を一段登った横を、涼しげに駆け上がっていく人は何人もいて、それを眺めながらいつも泣く。
そんな学生時代だったけど、今よりも何十倍も生きている気がした。
やりたいのに、わたしには出来ないから仕方ないかって思ってるのがダサすぎる。
大人になると、変に人生を悟って、汗を流すことを嫌って、もがき苦しまなくなるのどうしてなんだろう。
こんな文章を書いてるのも、朝になって出勤途中の社会人モードの頭で見たら、あぁ何書いてんだろってきっと思っちゃう。
上手にさぼる大人がもてはやされるし、遊べる人がかっこよく見えるし、努力を見せずにそつなくこなすのがかっこいい。世間の目を気にして失敗が怖くなるし、努力してると「意識高い系」とか言われる。


でも、だるいなって言いながら、本当は不完全燃焼な悔しさをビールで流し込むよりも、全力投球して、出来ない!悔しい!やりたい!って泣ける大人でいたいな。
ファイト!

 

 

 

 

 

 

 

悪態

昨年の春は何をしていたかもう思い出せない。

不安と退屈で、ただただ長く感じられた夜に「ささやかな幸せ」を感じられる方法をひたすら模索していた。

夜中にアイスコーヒー片手に薄暗いリビングの一人用の座椅子にもたれ掛かって、本でも読んでたらそれだけで深夜の時間を満喫した気分になっていた。深夜のひとりぼっちの時間を自分の世界に染められる人は、どんな世の中になろうと生きていけると信じていた。

 


忘れるべき思い出ほど、剥がしたかったけど剥がしきれずに破片が汚く残ったシールの跡みたいに脳裏にこびりついているのはどうしてだろう。

初めてのデートで訪れた場所に、たまたま今度は別の人と訪れた。

同じ駅の同じ改札をくぐって、同じ待ち合わせ場所。そこから見えるあの居酒屋。わざとかと思うほどリンクしていたけど、それは私だけが知ることだ。

 


未来とは、冷凍保存された記憶を置き去りにして、感情だけがアップデートされていく。

過去は未来に繋がっているというけれど、この手の伏線回収の仕方は心が軋む。

時間帯も空気も街の雰囲気も店の場所も何もかも変わっていないのに、唯一変わったのは、「ここは何も変わっていない」と感じることが出来てしまうわたしだ。

初めてだった場所が2回目の場所になって、その場所に置き去りにした記憶が塗り替えられる。

記憶の中のドラマチックな夜も、記憶と感情が噛み合わなくなるとざらりとした苦味を舌に残しては違和な触感を残す。

記憶って、パソコンみたいな上書き保存じゃなくて、既存の絵画の上にカーボン紙を重ねて新たに絵を描いたように保存されることを今更知った。

でもいちばん悪いのは、もう保存しておかなくてもいいはずの記憶をゴミ箱フォルダに入れたつもりで、最後の「消去」のボタンが押せずに、まだ完全に捨てきれていないわたしだ。

もっと悪いのは、いちいち感情的に捉えるこの頭。

お花畑ならぬエモ文学的思考で、あまりに

陳腐な感情すぎて、小説のワンシーンにしたら一気に冷めると思った。

 

 

 

実は、臆病者な私は、案外、相手のことも他人のこともどうでもよくて、自分のプライドのことばかり気にしている。

「わたしがわたしを許せるか」今までそんな基準で生きてきた。でもそんな基準に当てはめると、大抵のことは許せない。

自分に対する理想はめちゃくちゃ高くて、それに到底答えられない現実のわたし(部下)に失望する鬼上司みたいな存在が心にいた。

そいつは、うさぎ跳び校庭10周みたいなことを平気でやらせてくるし、それについていけずに根をあげる自分に対して自己嫌悪がさらに積み重なっていた。

感情の右端と左端を両手で持って雑巾絞りして、そこから滴り落ちる血を見て成果が出ていると思い込んで喜ぶみたいなやつだった。

他人からの期待の方がよっぽど優しいし、他人から言われる暴言なんて、自分が自分に吐き続けた暴言よりもよっぽどかわいいものだった。

まだ24年しか生きていないけど、その2/3は、厨二病的狂気と呼ぶか、ひとりドM劇場みたいな人生だったなと思う。

 


でも最近、その鬼上司みたいな奴が、わたし自身を庇うために第三者に向けて怒ってくれるようになった。

歳を取ると性格が丸くなるみたいなやつで、今は怠惰すぎるからもうちょっと鞭を打ってくれと思う。

でも、誰かに傷つけられたら悲しくて、自分自身にじゃなくて誰かに認められたら嬉しいということを知ったら、やっと自分って大切だなと思った。

砂漠で水を求めるみたいに「愛されたい」と思い続けてきたドM劇場時代だったけど、本当は充分愛されていることを知ったら、愛されることよりも愛してみたいと思った。

 

 

 

春。夜中の一歩手前。薄暗いリビングで、アイスコーヒー片手にキッチンの下に座り込む。

こんな時間にコーヒーを飲めば眠れなくなるのを知っていながらわざと飲みながら、ネットニュースを眺める。

他人のどうでもいいことには目を輝かせて介入するのに、自分はその記事を書きながら寝不足でカップラーメンでも啜ってるんだろうと思うと、他人のことは放っておいてもっと自分のことに介入すればいいのにと思う偏見。

まだ肌寒い夜に、眠れなくなる冷たい飲み物を飲みながらどうでもいい悪態をつくわたしも同類だ。

現実を見れば見るほど目を逸らしたくなる。

「ささやかな幸せ」とは、嫌なことも幸せなことも何もかも忘れられる空白の時間なのかもしれない。虚無。

深夜のひとりぼっちの時間を自分の世界に染めようとは思わなくなった。

 

 

 

 

過去に戻れるなら、絶対戻りたくない

『過去にもし戻れるならば、いつに戻りたい?』って話をされた時に、過去には戻りたくないと思った。
随分と、自分の中で自分について、もがいてきた。特に恋愛はコンプレックスでしかなかった。可愛い友達に、「早く彼氏作ればいいじゃん」って言われる度に、工作じゃないんだから、作りたくて作れるもんじゃねぇって思った。
「今、恋愛はしたくないんだよね」って言ってその場をしのいでいたけど、本当は恋愛がしたくて、でも出来なくて、何でわたしはこんなんなんだろうってずっと悩んでいた。


まず、わたしはずっと、自分は可愛くなくて、太っているから恋人ができないんだと思っていた。大学生になった頃からは別に誰かに外見のことを言われたわけでもないし、周りの人がどう思うかは知らないけど、わたしは自分のことを可愛くないとか太っていて醜いと思い込んでいたから、当然自信も無いし、鏡に映る自分もそのまま醜く見える。
パーソナルカラーだとか骨格診断だとかを調べて、少しでもマシに見える髪型を考えたり、自分に似合うメイクを知るためにわざわざメイクサロンに行って教えてもらった。
でも、教えてもらったところで、グリーンとかパープルのアイシャドウを使ったり眉毛を濃く書かれたメイクを施された自分が可愛いとは微塵も思わなかった。
わたしは別に個性的な魅力が欲しかったわけじゃないし、どうせ教えてくれるなら、普段使いできるブラウンのアイシャドウの塗り方だったり、涙袋をさりげなく作る方法とか、誰にでも使えるテクニックを教えてくれた方がよっぽど有り難かった。というか、それが知りたかった。
あと、奥二重のキツく見える目も大嫌いだった。どうしても二重になりたかったけど、アイプチの使い方が絶望的に下手くそで、瞼の皮が剥がれた人みたいになるから、仕方なくお風呂で白目を剥いた後にマッサージをして奥二重の線を何とかはっきりと二重に癖付けしたその「努力自体」の方がよっぽど可愛い。

 


ダイエットのために、高いお金をエステやジムにつぎ込んだこともあった。
温感ジェルを塗りたくってマッサージしてみたり、コルセットダイエットとかもやってみたけど、苦しくて続かなかった。
やっぱり食事制限だなって思って、1日のカロリーを1000キロカロリーに抑えてみたり、受験勉強をしながら、炭水化物も甘いスイーツも一切食べられずに、鶏肉とサラダとスープとゆで卵が一日の食事で、「受験勉強」と「空腹」というダブルのストレスと闘う毎日を自分に強いた。
それでも全然効果は無くて、体重はビクともしなかった。
当たり前だ。わたしが思う以上に身体は賢くて、便秘にもなるし、逆にわずかに口にした食品を全部吸収して溜め込むという、今思うとめちゃくちゃ本末転倒なことをしている。
大学生の時は、おばあちゃんやお母さんと姉とデパートに行くと、よく服を買ってくれた。
ほっそりしている姉は、大抵のどんな服でも似合うから欲しい服がいくつもあったけど、わたしは着られる服を選ぶ必要があったから、可愛い服を見つけてもタグのサイズを見ては、ハンガーに戻していた。
憧れのブランドのフロアで姉が何着も試着しながら「これ欲しい!」と言うのを横目に見ながら、試着する勇気もなくてわたしは一着も買えなかった。


ちなみに、あの頃のわたしには、毎食野菜を食べて飲み物はなるべく温かいものを選んで、炭水化物も抜くことなくバランスの良い食事をしていれば、ちゃんと3食しっかりお腹いっぱい食べてもゆっくりだけど確実に体重は落ちていくよ、その方法が一番合ってるよって言ってあげたい。
あと社会人になれば自然に食欲無くなるし、ちょっとげっそりするよって。
相変わらず、誰かと服を見に行くのは苦手だし、まだまだ良いスタイルなんかじゃないけど。


とにかく毎日自分が惨めで仕方なくて、何でこんなに頑張ってるのにわたしはダメなんだろうと毎日消えてしまいたかった。
人前に出るのも、新しい人と仲良くなるのも怖かった。


「何か彼氏が出来ない問題があるとしたら、それは別に外見の問題じゃないと思うよ」大学生の時、仲良かった男の先輩からそう言われたことがある。
でもその言葉の意味を、当時はどう受け取っていいか分からなかったから、見た目じゃなかったらじゃあ何が問題なのって拗ねていた。
でも今ふとその言葉を思い出した時に、見た目云々じゃなくて、わたしは「わたし」が一切無かったんだなと思った。
恋愛に限らず、わたしがわたしじゃないから、誰かを惹きつけられる魅力も当然ない。
あったとしても、自分がそれを握りつぶしている。
本当にそれがその言葉の意図だったのか分からないけれど、誰かに何年間もじっくり考えさせる一言を言ったその先輩は、すごかったなと思う。


確かに見た目は、誰かに選ばれるひとつの要素かもしれないけど、要素に過ぎない。
それだけじゃなくて、人の魅力って見た目以上に、人間性なのかもしれないとつくづく思った。


「彼女とかそういうキャラじゃなく思える」
「隙がないからだよ。何か壁があるよね。」
「恋愛とかしたいの?」
これもすごくよく言われた。
どうしたら人に心を開けるか、親しみやすくなれるかを必死に考えた。
隙があるとは、天然でアホなフリをすることなのか、それとも誰にでも話しかけてみることなのか、心の内を何でも話してしまうことなのか。
モテる友達の話し方を真似してみたりもした。
モテる子は、リアクションが大きくてちゃんと相手に話させてあげているらしい。
なるほどって思って真似してみたけど、不器用だからリアクション芸人に成り果てて、ひな壇に座ってるガヤみたいで自分は全然楽しくなかった。
相手の話を引き出す方法はけっこう身に付いたから、初対面の人との会話が終わった後、わたしは相手の簡単な紹介文を書けるほどはある程度分かったけど、相手はわたしのことを1割も分かっていないだろうなと思った。
結局どれを試しても、1時間後には疲れ果てて無口になった。


「元気で明るくてよく喋る子がタイプのやつがいるんだけど、紹介していい?」
サークルの先輩に言われたことがある。
わたしはその先輩から元気で明るくてよく喋る子だと思われているんだなと思った。
確かに、心を開かなきゃ、親しみやすくならなきゃと思っていた時だったから、別に好きだったわけでもないその先輩相手に、ムダにテンション高くリアクションを取ってみたり、ずっとベラベラと1人で喋っていたりしていた。
でも、その先輩と接した後は、疲労感で眠って電車を乗り過ごしてしまうほどわたしは自然に振舞っていなかった。
そんな間違ったレッテルを貼られて間違ったわたしを期待されて、相手が望む人物像になり切ってまで誰かを紹介してもらおうとは思わなかった。
「わたしなんか申し訳ないですよ」っていつもの調子で断って、ひたすら自分を卑下したその日の帰り道は、いつも以上に疲れてぐったりした。


わたしは愛嬌がないから人に好かれないと思っていた。
だから必死に恋愛エッセイだとか、恋愛心理術の本とか攻略本を読み漁った。
その結果、恋愛シュミレーションゲームなら、確実に正解の選択肢を選べる自信はあった。
でも、いざ教科書通りに振る舞おうすると、頭ではセリフが思い浮かぶのに好かれる態度も言葉も何にも出てこない。
つくづく不器用で、なおかつ天邪鬼で素直になれない。
一瞬付き合った人と別れ話をしてる時に、「わたし天邪鬼なんだよね」って言ってみたけど、「天邪鬼がよく分からない」と言われた。
天邪鬼って、本当に上手に使う人が使えば、テクニックになり得るのかもしれないけど、そのほとんどは、はっきり言えない自分の甘えなんだなって思った。
相手がわたしのことを分かってくれるなんて思うな。天邪鬼を汲み取って変換してくれる人なんていない。
ちゃんと自分の気持ちは素直に相手にそのまま伝えなきゃ伝えたい気持ちなんて全く伝わらないんだなって思って、すごく反省した。
愛嬌って、付け焼き刃で人に可愛いって思われる仕草をしたり、相手が気分が良くなる言葉を使うことじゃなくて、ちゃんと自分の気持ちを素直に相手に伝えるところから滲み出るものなんだなって思った。


この前、久しぶりに会うサークル時代の後輩とランチに行った。彼女は、活発でいつもニコニコと誰にでも気さくに話しかけるから、先輩にも同期とも後輩とも仲良くて、愛されキャラな子だ。ごく自然に人の懐に入るのがすごく上手くて、それがすごく魅力的な子だなと思っていた。
誰かがあげたインスタグラムのストーリーで流れてくる、サークルの何人かで遊んだ写真の中には大抵彼女がいる。
彼女は甘えられるよりも甘えるのが好きみたいで、同期や後輩も好きだけど、本当は先輩達と遊んでいるのが楽しいとよく言っていた。
彼女の職場は男社会らしくて、彼女を可愛がってくれる先輩や上司と写った飲み会やレジャーの写真をたくさん見せてくれた。
「ワンピースとか花柄のスカートを履いていくとおじさん受けがいいんです」「このお局さんにはお菓子を献上して機嫌を取るんです」
それぞれの人に愛される接し方をよく知っているらしい。


ランチの後のショッピングで彼女が時折、ワンピースや身体にフィットしたニットを持ってきて「これはおじさん受けですか?」と尋ねてきた。
その度に、受けなんか気にせずに、自分が好きなものを着れば良いのにと思ったけど、わたしはそう言う代わりに、「そうかもね」と答えて、どんなものが「おじさん受け」なのか分からなかったから、彼女の骨格に似合っていたニットを勧めた。
心で思っていたところで、「あなたはそのまんまで可愛いし、好かれる人だよ」と一言言ってあげられないのが、まだまだ伝えることが下手くそなわたしだなと思った。
でも、「そのままで良い」が自分にも誰かにも出てくるようになったことは、すごく生きやすくなったなと思う。


相変わらず、生活に恋愛がある人生じゃない。
小学生くらいの頃から恋人が途切れない人もいれば、社会人になってもろくに恋愛をしていない人生もある。
誰かに話すと、可哀想な人みたいに扱われることがあるし、時にそれがすごく寂しくて、本当に自分は魅力がないのかなと落ち込むことも確かにあるけど、今は、そんなこと考えても仕方ないし、割とどうでもいいなって思う。
数ヶ月前、仕事も初めてしてみた恋愛も、何もかも上手くいかなくて、心が壊れそうだった時に、話を聞いてもらった人から「自分の中で心と身体と言葉、一本筋が通るようになると、すごく魅力的な人になれるよ。」
と言われた言葉が忘れられない。
誰かから「好き」って言われなくても、無理せず自分が自分を素直にまぁ良いかなって思えるなら、結構合格点だと思う。

 

今のところ、そう思う。

答えは出ないというのに。

たまに意味もなく寂しくなる。寂しくなるって、結局は、持て余した暇を、愛されている実感で埋めたいとかいう自己中心的な幼い欲求なだけで、ホンモノの孤独とは違う。
本当は何が欲しいわけでもなくて、自分だけが取り残されている手持ちぶたさな時間が怖いだけ。
夜中に反則なはずの甘いアイスを食べても満たされない夜は、とてつもなく息苦しくて長く感じる。


普段、1人で生きていけますよって顔をして歩いているはずなのに、寂しくなると途端に相手をしてくれそうな誰かを探して口数が増える。
馬鹿みたいだ。
話したい内容もないのに通話ボタンを押すとき、話題づくりに、今日あった嫌なこととか、わたしの手持ちの不幸な話を必死に思い出す。
ねぇ、聞いてよ〜から始まる愚痴。別に共感も慰めもアドバイスも求めていない。
ただ、沈黙が怖かっただけだ。
地声よりもちょっと高めの声で話すとき、よく思われようとしているそんな相手に、心なんか開いていない。

 

そうやって、寂しくなって誰かを求める自分は、自分じゃない気がする。
わたしはそれがしたいわけでも、多分出来るわけでもないけど、ワンナイトラブの意味がちょっと分かる気がする。
倫理観は置いておいて、利害関係が一致した欲望以外、お互いの素顔や生活を干渉し合わない関係がむしろ清々しいんじゃないかとすら思う。
そう思うほどまでに、何にも分からないくせに、気持ちを分かったフリをされたくない。
わたし以外の人間に、一体わたしの何が分かるんだ。わたし以外の人間を、わたしが分かってあげることなんか出来ない。
夜に酔った勢いでちょっと甘えて返した返信を、朝見ると、一気に白けて送らなきゃよかったってひどく後悔する。
顔文字が多い。
微笑んでいる絵文字を語尾につけておけば、何でも許していそうで、優しそうに見えるのが気にくわない。
顔文字で文章を飾るなら、もっと気の利いた文句の一言でも入れておいてほしい。
笑いながら汗をかいている絵文字を見るたびに、笑ってるのにちょっと困ってるそのアンバランスな表情で、心中を察してくれって期待されてるみたいで、気持ち悪い。はっきり言えよ。

 


インスタを見てるとおすすめ欄に出てくる育児漫画で、育児中のお母さんとお父さんが分かり合えなくて喧嘩になる話を見るたびに、将来するかも分からない結婚が憂鬱になる。
わたしは女性だからどうしてもお母さんに感情移入して考えてしまうけど、子供を産んで、育てるって壮絶すぎる。
数年後の自分に、それが出来るんだろうか。
家事や育児について、男性が「参加する」とか「手伝う」っていう表現が多く使われているのが嫌だ。

例えばシェアハウスをしている友達同士だったら、自分のことは自分でやったり、生活をするための役割をきちんと話し合って分担出来るのに、どうして結婚して夫婦になったら、それが出来なくなるというんだろう。
婚姻関係を結んで夫婦になったら、子供を産んだら、何もかも「無償の愛」みたいになるのが怖い。許したくないことも、その愛ゆえに許さなければならないことが受け入れられるのが、母性というのだろうか。
それなら、わたしには母性が芽生えないかもしれない。


「自分の方が疲れている」とか「自分が養っているから」とか、大黒柱は男性とか、家のことをやるのは女性と一般的に決め付けられた価値観が息苦しくてたまらない。仕事一筋に生きたい女性だって、家事が得意な男性だって、どっちも許されていいはずだ。
どちらがいいか選べもしない、ある性別にたまたま産まれてきてしまっただけで、どうしてやるべき役割が決められなければならないんだろう。
就活のとき、志望理由のひとつに、「女性でも働き続けられる仕事」をあげながら気持ち悪くなっていた。
働き続けたいという夢のために、仕事を選ばなければならないのが嫌だった。
単身赴任でも、遠くへ出張でも、何だってしたい。
適齢期になったら結婚をして、子供を産んで育てることが女性に課せられた「一般的な幸せな生き方」なら、どうしてわたしの人生は、今までずっと自分で歩いてきたのに、途中から誰かのものにならなきゃならないんだって捻くれたくなる。
でもきっと、男性だって社会から勝手に乗せられた「男性だから」のレッテルの重みに潰れそうな人だってたくさんいるんだろう。


寂しさって、愛って、レッテルって、何なんだ。
別に考えない方が気楽に生きていけることを、永遠にぐるぐると考えこんでしまう脳みそが憎い。
深夜のリビングでうずくまって考えていても、どうせ答えは出ないというのに。

 

 

痛みと苦しみのエッセイについて

最近、エッセイが書けなくなった。

エッセイって、どうやっても自分が経験した出来事とか考えたことしか書けない。

想像でエッセイは書けないことは嫌ほど痛感してきた。

 


わたしは物語を書くとき、恋愛感情を描きたくなることが多いけど、正直フィクションで書いていい物語に書くそれすらも正しいのか分からない。

恋愛もろくにしたことないのに、恋や愛を書いていいのだろうか。

わたしが描けるのは所詮、どこかで得た知識でしかない。

わたしはプロの作家でもなければ表現者でもない。表現をすることでお金をもらっているわけでもないし、当然それが仕事ではない。

でも、時々、恋愛経験が豊富であれば、もっと鮮明に複雑な感情が書けるんだろうなって思ってしまう。

エッセイは、エピソードが濃ければ濃いほどそれの説得力が増すはずだ。何かを書くときは、ふわっとした抽象的な表現を重ねるよりも具体的なエピソードがガツンとあった方が読み手の印象に残る具合が全然違うと思っている。

でも、だからといって、書くためにむやみにわたしの心の何かを削るのは違うんだろう。

だから、わたしは、エピソードが書けない「恋愛」というジャンルではまだエッセイはなかなか書けない。

 

エッセイって、等身大のわたしを書くべきなのか、それとも、書きたいもののためにわたしが変わっていくもの、どっちがいいんだろう。

 

バズるエッセイには法則があることに気がついてしまった。

エッセイとは、自分が考えたことや感じたことを直接的に表現できる場所だ。その分、その題材に何を選ぶかをかなりこだわる。

誤解を恐れずに言うと、バズるエッセイの題材に「痛み」や「苦しみ」がある。

痛みや苦しみって誰もが通ってきた道。

友達ののろけ話はうるさくて聞きたくなくても、誰かの、「ここだけの話」って聞かされる秘密の悩みはちょっと聞きたくなっちゃうのは、誰しも秘密にしたい悩みを持ったことがあるからだ。

それは強烈であればあるほど、エッセンスとして興味を引くし、共感だけじゃなくて、色んな議論を生みやすい。

 


正直、今のわたしは、過去の自分の傷をエッセンスにしてしまいそうで怖い。

実際、過去に自分が苦しんできたこととか、自分の心の中の棺にしまっておきたい、いわゆる黒歴史をエッセンスに、いくつかエッセイを書いたことがある。

何かを書くときは、深夜にキッチンの前に座り込んで1時間くらいの時間をかけて、ばーっと指が進むまま書くのがわたしのスタイル。

それらのエッセイも、特に考え込むことなくいつものnoteと同じようにそうやって書いた。

でも、翌朝になって読み返すと、そのエッセンスの強烈さゆえに消したくなって何度も消そうか消さまいかを考えた。

結局、書いたものを消すのは心苦しくて、消さなくても納得できる理由を探す。

納得できる理由とは、得たスキの数と読まれた回数を示すpvの数だ。

それは間違いなく、エッセンスの効果は想像以上に強烈であることを示していた。

 


以前に書いたリストカットについてのnote。

去年の10月の記事だから、もう9ヶ月以上も前なのに、相変わらず1週間に400〜500以上のpvがつく。

ダッシュボードのpvの頂点に、他の記事とは桁外れの数でこの記事が鎮座している。

わたしのいちばんバズった記事がこれだ。

正直な気持ちを話していいなら、複雑で、ちょっと悔しくて、そして心配だ。

リストカット」って検索したら、ページの1ページ目にわたしのnoteが出てくる。

まるで、それの経験者の代表的な意見のひとつみたいだ。

 


リストカットは思春期の日常に身近なタブー。どんなクラスでも1、2人はいたはずだ。

バレたら先生に呼び出されたり、スクープを見つけたみたいにひそひそ友達に噂される。

「あの子、これ、やってるらしいよ」

それでも、内心みんなちょっとドキドキしていたはずだ。気持ち悪いとか痛いっていう嫌悪感かもしれないし、本当はちょっとそれをする気持ちが分かるのかもしれない。

わたしも出来るだけ目立たないように隠していた。

別に大人にSOSも求めていなければ、誰かへの見せしめでも無かった。ただ、自分が自分に負わせる「痛み」という感情で、心を保っていたかっただけだ。心配なんてしてくれなくていいし、無用に騒ぎ立てられるのが嫌で、誰にも気づかれたくなかった。

 


でも、それをどう思うかは個人の意見だ。

当時、これについてのnoteを書いた理由は、自分の中でずっと考えてきた、「リストカットは悪なのか」を大人になった今ならやっと整理して言葉に出来ると思ったからだ。

正直、わたしはリストカットをしている子を見つけても、適度に心配はしてもいいけど、過剰に騒いだり、悪いことだと咎めてやるなと思っている。自分を傷つけることでしか自分を守れない時だってあるんだ。

誰かに迷惑をかけないのならば、法に触れるような犯罪でも無いんだし、それを悪か正しいのか問題にするのは、社会でも周りの大人たちでもなくて、自分自身であって、その答えは自分で決めればいい。

 


この記事を書いたのは、確かに自分の昔の経験があって、ずっと考えてきたからだ。

でも、その経験は単なる過去の1ページ。

わたしはその黒歴史と言われるであろうリストカットの経験を今も胸に生きているわけではない。

忘れてしまっていい。

 


それでも、そのエッセンスの関心と問題性ゆえに、わたしのいちばん読まれるエッセイになってしまった。

「なってしまった」というのは、それ自体が決して悪いというのではなく、自分がコンセプトとして掲げて書いた読まれたい記事が読まれないのに、という嫉妬に過ぎない。

何でだよ。もっと、こだわって書いた記事とか伝えたいことは他にたくさんあるはずなのに。

 


その記事自体を書いたことは後悔していない。それもひとつのわたしだ。

ただ、内容が内容なだけに、感情に揺さぶられてむやみに共感するのは違う。

ちゃんと自分の頭で自分にとってその考え方が必要かどうか、飲み込むべきか気にしないでおくべきかを考えなきゃだめだ。

 


今のわたしはそうやって過去の強烈な出来事を引っ張り出してきてエッセイを綴るには限界だ。あくまでそれは、わたしの本当に書いていきたいものではないし、あえて強烈なエッセンスを引き出すための経験をしにいくわたしになるのは決して違う。

だから、伝えたいことがあるときは時には過去のことを引っ張り出すけれど、あえて、自分の傷を犠牲にして書くことは絶対しないでおこうと思う。

 

 

 

書き手にとって、たくさんの人に読まれることは決して悪い気はしないだろう。

エピソード自体が誰かの感情を揺さぶったり、感じ方が分かれるものであればあるほど、それは間違いなく多くの人の読みたい欲を惹きつける。

何度も言うけど、過去の秘密や衝撃的なエピソードを引っ張り出してきてエッセイを書くこと自体は全く否定しない。

自分の経験や考えを伝えるために、それをあえてコンセプトに書く人が必要だと思っている。

 


でも、自分の考えではなく、その「強烈なエッセンス」に条件反射で反応するのはちょっと悲しい。

そのエッセンスの力ゆえにバズると思われる現実は、書き手としてはちょっと悲しいではないか。

 


どうか、書き手が伝えたいことがちゃんと伝わりますように。

エッセイを書くために自分を傷つけることがありませんように。

どうか、伝えたい思いのために、自分の傷を削って血を流しながら書くということが、正しく導かれますように。