これをクォーターライフクライシスというらしい

最近、人生にそわそわする。

マイペースに自分らしく生きたいって思ってる裏側で、どう生きるのが自分の幸せなのか分からなくなっている。

 

自分の人生について考えるとき、ぼんやりとわたしはなぜか外国に行く気がしていた。

英語も話せないし外国でやりたいことも特に分かってないのに、どうしてか狭い日本の世界しか知らずに死ぬのは勿体無い気がしていた。

でも、今のところどういうきっかけでどこに行くのかすら全然分からない。

 

結婚については、何歳までに結婚してそうとかそんなことは全然予想がつかなかった。

周りの友達は「わたしは○歳の時には結婚して子供がいると思ってた」とかそういうことを一度は考えたことがあるらしいけど、わたしはもっとやりたいことがあって、自分の人生が大事で、結婚のことも子供のことも「他の人を支える」立場に切り替えて人生を考えるだけの余裕が無かった。

そのくせに、ひとりで生きていく自信がない。

だから、男性に生まれたかったとか思うのかもしれない。

 

仕事をしながら、平日の夜と休日にはステップアップの為の試験の勉強をする。もしくは友達と遊ぶ。そんなことをしていたら、あっと会う間に月日は過ぎていった。

周りの友達は結婚をして、子供も産まれたけど、

わたしは未だに学生の時に進路を決めるみたいに、自分の人生をどう生きればいいのか迷ってる。

恋愛だってろくにしていない。

見た目を磨いたところで、中身までちゃんと恋愛に適応していないと恋愛は出来ないんだって最近学んだ。

 

女性として幸せになることと、自分の人生を自分のために満足して生きることを両立できるのか分からない。

 

結婚できなかったら、って思うと怖いけど、わたしの人生を共に歩みたいと思える人がどんな人なのかも分からなくて、テキトーな人を選ぶくらいなら結婚したいのかどうかも分からない。

それなのに制限時間(だと思い込んでいる)は刻一刻と迫り来る。

 

どんな人生を歩めば幸せになれるんだろう。

 

 

っていう思い込み。

この葛藤をもうここ5年くらいはやってきた。

その間にも色んなことがあった。

 

悪いことしか考えられなくてとてつもなく寂しくなる夜は妙に決断力があって、良くないことも決断してしまいそうになるけど、ふいに誰かが書いた文章に触れて、あるべき自分に引き戻される。

そうやって朝を迎えて、あぁ救われたと思ったことが何度もある。

 

「人生はどうなるか分からない」って言葉が、昔は怖かった。怖いと感じる時は、人生が上手くいってると思うときで、それがいつか悪い方向に転じることを恐れているからだ。

でも、今はその言葉が救いのように感じる。

まだどうなるか分からない未来に期待をしたいと思っている。

そのくせに「ピアスを開けると運命が変わる」っていう迷信を信じて怖がってピアスを開けることを躊躇し続けている。

生まれた時からわたしの結末は運命として決まっているのだろうか。

きっと今ある現実も、努力して手に入れたように思えて、実は運命に導かれているだけなのかもしれない。

そう思うと、手に入れられなかったものを上手く忘れられそうだ。

 

誰と出会って、誰とどんな関係になるかも運命が決めているなら、最近した失恋のことを「自分が成長するための出来事」だと捉えて忘れてしまうしかないと思っている。

でも結末は同じにしろ、ちゃんと相手に気持ちを伝えたのはわたしの選択した行動で、気持ちを伝えていなかったら成長する機会を逃したことになるんだろう。

ここで経験しなかったことは、進む先を間違えた時のカーナビみたいに、新たなルートを検索して提示してくれるはずだから、また違う機会が待ってるんだろうと思う。

 

そうやって生きてると思うと、自分の人生がプログラミングされたゲームみたいに思えてくるけど、選択に伴う感情だけは本物みたいだ。

今は、怖いし、苦しいし、切ない。でもちょっと清々しい。

 

「こんなやり方でも前に進むのよ」って言い聞かせて今を進んでる。