悪態

昨年の春は何をしていたかもう思い出せない。

不安と退屈で、ただただ長く感じられた夜に「ささやかな幸せ」を感じられる方法をひたすら模索していた。

夜中にアイスコーヒー片手に薄暗いリビングの一人用の座椅子にもたれ掛かって、本でも読んでたらそれだけで深夜の時間を満喫した気分になっていた。深夜のひとりぼっちの時間を自分の世界に染められる人は、どんな世の中になろうと生きていけると信じていた。

 


忘れるべき思い出ほど、剥がしたかったけど剥がしきれずに破片が汚く残ったシールの跡みたいに脳裏にこびりついているのはどうしてだろう。

初めてのデートで訪れた場所に、たまたま今度は別の人と訪れた。

同じ駅の同じ改札をくぐって、同じ待ち合わせ場所。そこから見えるあの居酒屋。わざとかと思うほどリンクしていたけど、それは私だけが知ることだ。

 


未来とは、冷凍保存された記憶を置き去りにして、感情だけがアップデートされていく。

過去は未来に繋がっているというけれど、この手の伏線回収の仕方は心が軋む。

時間帯も空気も街の雰囲気も店の場所も何もかも変わっていないのに、唯一変わったのは、「ここは何も変わっていない」と感じることが出来てしまうわたしだ。

初めてだった場所が2回目の場所になって、その場所に置き去りにした記憶が塗り替えられる。

記憶の中のドラマチックな夜も、記憶と感情が噛み合わなくなるとざらりとした苦味を舌に残しては違和な触感を残す。

記憶って、パソコンみたいな上書き保存じゃなくて、既存の絵画の上にカーボン紙を重ねて新たに絵を描いたように保存されることを今更知った。

でもいちばん悪いのは、もう保存しておかなくてもいいはずの記憶をゴミ箱フォルダに入れたつもりで、最後の「消去」のボタンが押せずに、まだ完全に捨てきれていないわたしだ。

もっと悪いのは、いちいち感情的に捉えるこの頭。

お花畑ならぬエモ文学的思考で、あまりに

陳腐な感情すぎて、小説のワンシーンにしたら一気に冷めると思った。

 

 

 

実は、臆病者な私は、案外、相手のことも他人のこともどうでもよくて、自分のプライドのことばかり気にしている。

「わたしがわたしを許せるか」今までそんな基準で生きてきた。でもそんな基準に当てはめると、大抵のことは許せない。

自分に対する理想はめちゃくちゃ高くて、それに到底答えられない現実のわたし(部下)に失望する鬼上司みたいな存在が心にいた。

そいつは、うさぎ跳び校庭10周みたいなことを平気でやらせてくるし、それについていけずに根をあげる自分に対して自己嫌悪がさらに積み重なっていた。

感情の右端と左端を両手で持って雑巾絞りして、そこから滴り落ちる血を見て成果が出ていると思い込んで喜ぶみたいなやつだった。

他人からの期待の方がよっぽど優しいし、他人から言われる暴言なんて、自分が自分に吐き続けた暴言よりもよっぽどかわいいものだった。

まだ24年しか生きていないけど、その2/3は、厨二病的狂気と呼ぶか、ひとりドM劇場みたいな人生だったなと思う。

 


でも最近、その鬼上司みたいな奴が、わたし自身を庇うために第三者に向けて怒ってくれるようになった。

歳を取ると性格が丸くなるみたいなやつで、今は怠惰すぎるからもうちょっと鞭を打ってくれと思う。

でも、誰かに傷つけられたら悲しくて、自分自身にじゃなくて誰かに認められたら嬉しいということを知ったら、やっと自分って大切だなと思った。

砂漠で水を求めるみたいに「愛されたい」と思い続けてきたドM劇場時代だったけど、本当は充分愛されていることを知ったら、愛されることよりも愛してみたいと思った。

 

 

 

春。夜中の一歩手前。薄暗いリビングで、アイスコーヒー片手にキッチンの下に座り込む。

こんな時間にコーヒーを飲めば眠れなくなるのを知っていながらわざと飲みながら、ネットニュースを眺める。

他人のどうでもいいことには目を輝かせて介入するのに、自分はその記事を書きながら寝不足でカップラーメンでも啜ってるんだろうと思うと、他人のことは放っておいてもっと自分のことに介入すればいいのにと思う偏見。

まだ肌寒い夜に、眠れなくなる冷たい飲み物を飲みながらどうでもいい悪態をつくわたしも同類だ。

現実を見れば見るほど目を逸らしたくなる。

「ささやかな幸せ」とは、嫌なことも幸せなことも何もかも忘れられる空白の時間なのかもしれない。虚無。

深夜のひとりぼっちの時間を自分の世界に染めようとは思わなくなった。

 

 

 

 

過去に戻れるなら、絶対戻りたくない

『過去にもし戻れるならば、いつに戻りたい?』って話をされた時に、過去には戻りたくないと思った。
随分と、自分の中で自分について、もがいてきた。特に恋愛はコンプレックスでしかなかった。可愛い友達に、「早く彼氏作ればいいじゃん」って言われる度に、工作じゃないんだから、作りたくて作れるもんじゃねぇって思った。
「今、恋愛はしたくないんだよね」って言ってその場をしのいでいたけど、本当は恋愛がしたくて、でも出来なくて、何でわたしはこんなんなんだろうってずっと悩んでいた。


まず、わたしはずっと、自分は可愛くなくて、太っているから恋人ができないんだと思っていた。大学生になった頃からは別に誰かに外見のことを言われたわけでもないし、周りの人がどう思うかは知らないけど、わたしは自分のことを可愛くないとか太っていて醜いと思い込んでいたから、当然自信も無いし、鏡に映る自分もそのまま醜く見える。
パーソナルカラーだとか骨格診断だとかを調べて、少しでもマシに見える髪型を考えたり、自分に似合うメイクを知るためにわざわざメイクサロンに行って教えてもらった。
でも、教えてもらったところで、グリーンとかパープルのアイシャドウを使ったり眉毛を濃く書かれたメイクを施された自分が可愛いとは微塵も思わなかった。
わたしは別に個性的な魅力が欲しかったわけじゃないし、どうせ教えてくれるなら、普段使いできるブラウンのアイシャドウの塗り方だったり、涙袋をさりげなく作る方法とか、誰にでも使えるテクニックを教えてくれた方がよっぽど有り難かった。というか、それが知りたかった。
あと、奥二重のキツく見える目も大嫌いだった。どうしても二重になりたかったけど、アイプチの使い方が絶望的に下手くそで、瞼の皮が剥がれた人みたいになるから、仕方なくお風呂で白目を剥いた後にマッサージをして奥二重の線を何とかはっきりと二重に癖付けしたその「努力自体」の方がよっぽど可愛い。

 


ダイエットのために、高いお金をエステやジムにつぎ込んだこともあった。
温感ジェルを塗りたくってマッサージしてみたり、コルセットダイエットとかもやってみたけど、苦しくて続かなかった。
やっぱり食事制限だなって思って、1日のカロリーを1000キロカロリーに抑えてみたり、受験勉強をしながら、炭水化物も甘いスイーツも一切食べられずに、鶏肉とサラダとスープとゆで卵が一日の食事で、「受験勉強」と「空腹」というダブルのストレスと闘う毎日を自分に強いた。
それでも全然効果は無くて、体重はビクともしなかった。
当たり前だ。わたしが思う以上に身体は賢くて、便秘にもなるし、逆にわずかに口にした食品を全部吸収して溜め込むという、今思うとめちゃくちゃ本末転倒なことをしている。
大学生の時は、おばあちゃんやお母さんと姉とデパートに行くと、よく服を買ってくれた。
ほっそりしている姉は、大抵のどんな服でも似合うから欲しい服がいくつもあったけど、わたしは着られる服を選ぶ必要があったから、可愛い服を見つけてもタグのサイズを見ては、ハンガーに戻していた。
憧れのブランドのフロアで姉が何着も試着しながら「これ欲しい!」と言うのを横目に見ながら、試着する勇気もなくてわたしは一着も買えなかった。


ちなみに、あの頃のわたしには、毎食野菜を食べて飲み物はなるべく温かいものを選んで、炭水化物も抜くことなくバランスの良い食事をしていれば、ちゃんと3食しっかりお腹いっぱい食べてもゆっくりだけど確実に体重は落ちていくよ、その方法が一番合ってるよって言ってあげたい。
あと社会人になれば自然に食欲無くなるし、ちょっとげっそりするよって。
相変わらず、誰かと服を見に行くのは苦手だし、まだまだ良いスタイルなんかじゃないけど。


とにかく毎日自分が惨めで仕方なくて、何でこんなに頑張ってるのにわたしはダメなんだろうと毎日消えてしまいたかった。
人前に出るのも、新しい人と仲良くなるのも怖かった。


「何か彼氏が出来ない問題があるとしたら、それは別に外見の問題じゃないと思うよ」大学生の時、仲良かった男の先輩からそう言われたことがある。
でもその言葉の意味を、当時はどう受け取っていいか分からなかったから、見た目じゃなかったらじゃあ何が問題なのって拗ねていた。
でも今ふとその言葉を思い出した時に、見た目云々じゃなくて、わたしは「わたし」が一切無かったんだなと思った。
恋愛に限らず、わたしがわたしじゃないから、誰かを惹きつけられる魅力も当然ない。
あったとしても、自分がそれを握りつぶしている。
本当にそれがその言葉の意図だったのか分からないけれど、誰かに何年間もじっくり考えさせる一言を言ったその先輩は、すごかったなと思う。


確かに見た目は、誰かに選ばれるひとつの要素かもしれないけど、要素に過ぎない。
それだけじゃなくて、人の魅力って見た目以上に、人間性なのかもしれないとつくづく思った。


「彼女とかそういうキャラじゃなく思える」
「隙がないからだよ。何か壁があるよね。」
「恋愛とかしたいの?」
これもすごくよく言われた。
どうしたら人に心を開けるか、親しみやすくなれるかを必死に考えた。
隙があるとは、天然でアホなフリをすることなのか、それとも誰にでも話しかけてみることなのか、心の内を何でも話してしまうことなのか。
モテる友達の話し方を真似してみたりもした。
モテる子は、リアクションが大きくてちゃんと相手に話させてあげているらしい。
なるほどって思って真似してみたけど、不器用だからリアクション芸人に成り果てて、ひな壇に座ってるガヤみたいで自分は全然楽しくなかった。
相手の話を引き出す方法はけっこう身に付いたから、初対面の人との会話が終わった後、わたしは相手の簡単な紹介文を書けるほどはある程度分かったけど、相手はわたしのことを1割も分かっていないだろうなと思った。
結局どれを試しても、1時間後には疲れ果てて無口になった。


「元気で明るくてよく喋る子がタイプのやつがいるんだけど、紹介していい?」
サークルの先輩に言われたことがある。
わたしはその先輩から元気で明るくてよく喋る子だと思われているんだなと思った。
確かに、心を開かなきゃ、親しみやすくならなきゃと思っていた時だったから、別に好きだったわけでもないその先輩相手に、ムダにテンション高くリアクションを取ってみたり、ずっとベラベラと1人で喋っていたりしていた。
でも、その先輩と接した後は、疲労感で眠って電車を乗り過ごしてしまうほどわたしは自然に振舞っていなかった。
そんな間違ったレッテルを貼られて間違ったわたしを期待されて、相手が望む人物像になり切ってまで誰かを紹介してもらおうとは思わなかった。
「わたしなんか申し訳ないですよ」っていつもの調子で断って、ひたすら自分を卑下したその日の帰り道は、いつも以上に疲れてぐったりした。


わたしは愛嬌がないから人に好かれないと思っていた。
だから必死に恋愛エッセイだとか、恋愛心理術の本とか攻略本を読み漁った。
その結果、恋愛シュミレーションゲームなら、確実に正解の選択肢を選べる自信はあった。
でも、いざ教科書通りに振る舞おうすると、頭ではセリフが思い浮かぶのに好かれる態度も言葉も何にも出てこない。
つくづく不器用で、なおかつ天邪鬼で素直になれない。
一瞬付き合った人と別れ話をしてる時に、「わたし天邪鬼なんだよね」って言ってみたけど、「天邪鬼がよく分からない」と言われた。
天邪鬼って、本当に上手に使う人が使えば、テクニックになり得るのかもしれないけど、そのほとんどは、はっきり言えない自分の甘えなんだなって思った。
相手がわたしのことを分かってくれるなんて思うな。天邪鬼を汲み取って変換してくれる人なんていない。
ちゃんと自分の気持ちは素直に相手にそのまま伝えなきゃ伝えたい気持ちなんて全く伝わらないんだなって思って、すごく反省した。
愛嬌って、付け焼き刃で人に可愛いって思われる仕草をしたり、相手が気分が良くなる言葉を使うことじゃなくて、ちゃんと自分の気持ちを素直に相手に伝えるところから滲み出るものなんだなって思った。


この前、久しぶりに会うサークル時代の後輩とランチに行った。彼女は、活発でいつもニコニコと誰にでも気さくに話しかけるから、先輩にも同期とも後輩とも仲良くて、愛されキャラな子だ。ごく自然に人の懐に入るのがすごく上手くて、それがすごく魅力的な子だなと思っていた。
誰かがあげたインスタグラムのストーリーで流れてくる、サークルの何人かで遊んだ写真の中には大抵彼女がいる。
彼女は甘えられるよりも甘えるのが好きみたいで、同期や後輩も好きだけど、本当は先輩達と遊んでいるのが楽しいとよく言っていた。
彼女の職場は男社会らしくて、彼女を可愛がってくれる先輩や上司と写った飲み会やレジャーの写真をたくさん見せてくれた。
「ワンピースとか花柄のスカートを履いていくとおじさん受けがいいんです」「このお局さんにはお菓子を献上して機嫌を取るんです」
それぞれの人に愛される接し方をよく知っているらしい。


ランチの後のショッピングで彼女が時折、ワンピースや身体にフィットしたニットを持ってきて「これはおじさん受けですか?」と尋ねてきた。
その度に、受けなんか気にせずに、自分が好きなものを着れば良いのにと思ったけど、わたしはそう言う代わりに、「そうかもね」と答えて、どんなものが「おじさん受け」なのか分からなかったから、彼女の骨格に似合っていたニットを勧めた。
心で思っていたところで、「あなたはそのまんまで可愛いし、好かれる人だよ」と一言言ってあげられないのが、まだまだ伝えることが下手くそなわたしだなと思った。
でも、「そのままで良い」が自分にも誰かにも出てくるようになったことは、すごく生きやすくなったなと思う。


相変わらず、生活に恋愛がある人生じゃない。
小学生くらいの頃から恋人が途切れない人もいれば、社会人になってもろくに恋愛をしていない人生もある。
誰かに話すと、可哀想な人みたいに扱われることがあるし、時にそれがすごく寂しくて、本当に自分は魅力がないのかなと落ち込むことも確かにあるけど、今は、そんなこと考えても仕方ないし、割とどうでもいいなって思う。
数ヶ月前、仕事も初めてしてみた恋愛も、何もかも上手くいかなくて、心が壊れそうだった時に、話を聞いてもらった人から「自分の中で心と身体と言葉、一本筋が通るようになると、すごく魅力的な人になれるよ。」
と言われた言葉が忘れられない。
誰かから「好き」って言われなくても、無理せず自分が自分を素直にまぁ良いかなって思えるなら、結構合格点だと思う。

 

今のところ、そう思う。

答えは出ないというのに。

たまに意味もなく寂しくなる。寂しくなるって、結局は、持て余した暇を、愛されている実感で埋めたいとかいう自己中心的な幼い欲求なだけで、ホンモノの孤独とは違う。
本当は何が欲しいわけでもなくて、自分だけが取り残されている手持ちぶたさな時間が怖いだけ。
夜中に反則なはずの甘いアイスを食べても満たされない夜は、とてつもなく息苦しくて長く感じる。


普段、1人で生きていけますよって顔をして歩いているはずなのに、寂しくなると途端に相手をしてくれそうな誰かを探して口数が増える。
馬鹿みたいだ。
話したい内容もないのに通話ボタンを押すとき、話題づくりに、今日あった嫌なこととか、わたしの手持ちの不幸な話を必死に思い出す。
ねぇ、聞いてよ〜から始まる愚痴。別に共感も慰めもアドバイスも求めていない。
ただ、沈黙が怖かっただけだ。
地声よりもちょっと高めの声で話すとき、よく思われようとしているそんな相手に、心なんか開いていない。

 

そうやって、寂しくなって誰かを求める自分は、自分じゃない気がする。
わたしはそれがしたいわけでも、多分出来るわけでもないけど、ワンナイトラブの意味がちょっと分かる気がする。
倫理観は置いておいて、利害関係が一致した欲望以外、お互いの素顔や生活を干渉し合わない関係がむしろ清々しいんじゃないかとすら思う。
そう思うほどまでに、何にも分からないくせに、気持ちを分かったフリをされたくない。
わたし以外の人間に、一体わたしの何が分かるんだ。わたし以外の人間を、わたしが分かってあげることなんか出来ない。
夜に酔った勢いでちょっと甘えて返した返信を、朝見ると、一気に白けて送らなきゃよかったってひどく後悔する。
顔文字が多い。
微笑んでいる絵文字を語尾につけておけば、何でも許していそうで、優しそうに見えるのが気にくわない。
顔文字で文章を飾るなら、もっと気の利いた文句の一言でも入れておいてほしい。
笑いながら汗をかいている絵文字を見るたびに、笑ってるのにちょっと困ってるそのアンバランスな表情で、心中を察してくれって期待されてるみたいで、気持ち悪い。はっきり言えよ。

 


インスタを見てるとおすすめ欄に出てくる育児漫画で、育児中のお母さんとお父さんが分かり合えなくて喧嘩になる話を見るたびに、将来するかも分からない結婚が憂鬱になる。
わたしは女性だからどうしてもお母さんに感情移入して考えてしまうけど、子供を産んで、育てるって壮絶すぎる。
数年後の自分に、それが出来るんだろうか。
家事や育児について、男性が「参加する」とか「手伝う」っていう表現が多く使われているのが嫌だ。

例えばシェアハウスをしている友達同士だったら、自分のことは自分でやったり、生活をするための役割をきちんと話し合って分担出来るのに、どうして結婚して夫婦になったら、それが出来なくなるというんだろう。
婚姻関係を結んで夫婦になったら、子供を産んだら、何もかも「無償の愛」みたいになるのが怖い。許したくないことも、その愛ゆえに許さなければならないことが受け入れられるのが、母性というのだろうか。
それなら、わたしには母性が芽生えないかもしれない。


「自分の方が疲れている」とか「自分が養っているから」とか、大黒柱は男性とか、家のことをやるのは女性と一般的に決め付けられた価値観が息苦しくてたまらない。仕事一筋に生きたい女性だって、家事が得意な男性だって、どっちも許されていいはずだ。
どちらがいいか選べもしない、ある性別にたまたま産まれてきてしまっただけで、どうしてやるべき役割が決められなければならないんだろう。
就活のとき、志望理由のひとつに、「女性でも働き続けられる仕事」をあげながら気持ち悪くなっていた。
働き続けたいという夢のために、仕事を選ばなければならないのが嫌だった。
単身赴任でも、遠くへ出張でも、何だってしたい。
適齢期になったら結婚をして、子供を産んで育てることが女性に課せられた「一般的な幸せな生き方」なら、どうしてわたしの人生は、今までずっと自分で歩いてきたのに、途中から誰かのものにならなきゃならないんだって捻くれたくなる。
でもきっと、男性だって社会から勝手に乗せられた「男性だから」のレッテルの重みに潰れそうな人だってたくさんいるんだろう。


寂しさって、愛って、レッテルって、何なんだ。
別に考えない方が気楽に生きていけることを、永遠にぐるぐると考えこんでしまう脳みそが憎い。
深夜のリビングでうずくまって考えていても、どうせ答えは出ないというのに。

 

 

痛みと苦しみのエッセイについて

最近、エッセイが書けなくなった。

エッセイって、どうやっても自分が経験した出来事とか考えたことしか書けない。

想像でエッセイは書けないことは嫌ほど痛感してきた。

 


わたしは物語を書くとき、恋愛感情を描きたくなることが多いけど、正直フィクションで書いていい物語に書くそれすらも正しいのか分からない。

恋愛もろくにしたことないのに、恋や愛を書いていいのだろうか。

わたしが描けるのは所詮、どこかで得た知識でしかない。

わたしはプロの作家でもなければ表現者でもない。表現をすることでお金をもらっているわけでもないし、当然それが仕事ではない。

でも、時々、恋愛経験が豊富であれば、もっと鮮明に複雑な感情が書けるんだろうなって思ってしまう。

エッセイは、エピソードが濃ければ濃いほどそれの説得力が増すはずだ。何かを書くときは、ふわっとした抽象的な表現を重ねるよりも具体的なエピソードがガツンとあった方が読み手の印象に残る具合が全然違うと思っている。

でも、だからといって、書くためにむやみにわたしの心の何かを削るのは違うんだろう。

だから、わたしは、エピソードが書けない「恋愛」というジャンルではまだエッセイはなかなか書けない。

 

エッセイって、等身大のわたしを書くべきなのか、それとも、書きたいもののためにわたしが変わっていくもの、どっちがいいんだろう。

 

バズるエッセイには法則があることに気がついてしまった。

エッセイとは、自分が考えたことや感じたことを直接的に表現できる場所だ。その分、その題材に何を選ぶかをかなりこだわる。

誤解を恐れずに言うと、バズるエッセイの題材に「痛み」や「苦しみ」がある。

痛みや苦しみって誰もが通ってきた道。

友達ののろけ話はうるさくて聞きたくなくても、誰かの、「ここだけの話」って聞かされる秘密の悩みはちょっと聞きたくなっちゃうのは、誰しも秘密にしたい悩みを持ったことがあるからだ。

それは強烈であればあるほど、エッセンスとして興味を引くし、共感だけじゃなくて、色んな議論を生みやすい。

 


正直、今のわたしは、過去の自分の傷をエッセンスにしてしまいそうで怖い。

実際、過去に自分が苦しんできたこととか、自分の心の中の棺にしまっておきたい、いわゆる黒歴史をエッセンスに、いくつかエッセイを書いたことがある。

何かを書くときは、深夜にキッチンの前に座り込んで1時間くらいの時間をかけて、ばーっと指が進むまま書くのがわたしのスタイル。

それらのエッセイも、特に考え込むことなくいつものnoteと同じようにそうやって書いた。

でも、翌朝になって読み返すと、そのエッセンスの強烈さゆえに消したくなって何度も消そうか消さまいかを考えた。

結局、書いたものを消すのは心苦しくて、消さなくても納得できる理由を探す。

納得できる理由とは、得たスキの数と読まれた回数を示すpvの数だ。

それは間違いなく、エッセンスの効果は想像以上に強烈であることを示していた。

 


以前に書いたリストカットについてのnote。

去年の10月の記事だから、もう9ヶ月以上も前なのに、相変わらず1週間に400〜500以上のpvがつく。

ダッシュボードのpvの頂点に、他の記事とは桁外れの数でこの記事が鎮座している。

わたしのいちばんバズった記事がこれだ。

正直な気持ちを話していいなら、複雑で、ちょっと悔しくて、そして心配だ。

リストカット」って検索したら、ページの1ページ目にわたしのnoteが出てくる。

まるで、それの経験者の代表的な意見のひとつみたいだ。

 


リストカットは思春期の日常に身近なタブー。どんなクラスでも1、2人はいたはずだ。

バレたら先生に呼び出されたり、スクープを見つけたみたいにひそひそ友達に噂される。

「あの子、これ、やってるらしいよ」

それでも、内心みんなちょっとドキドキしていたはずだ。気持ち悪いとか痛いっていう嫌悪感かもしれないし、本当はちょっとそれをする気持ちが分かるのかもしれない。

わたしも出来るだけ目立たないように隠していた。

別に大人にSOSも求めていなければ、誰かへの見せしめでも無かった。ただ、自分が自分に負わせる「痛み」という感情で、心を保っていたかっただけだ。心配なんてしてくれなくていいし、無用に騒ぎ立てられるのが嫌で、誰にも気づかれたくなかった。

 


でも、それをどう思うかは個人の意見だ。

当時、これについてのnoteを書いた理由は、自分の中でずっと考えてきた、「リストカットは悪なのか」を大人になった今ならやっと整理して言葉に出来ると思ったからだ。

正直、わたしはリストカットをしている子を見つけても、適度に心配はしてもいいけど、過剰に騒いだり、悪いことだと咎めてやるなと思っている。自分を傷つけることでしか自分を守れない時だってあるんだ。

誰かに迷惑をかけないのならば、法に触れるような犯罪でも無いんだし、それを悪か正しいのか問題にするのは、社会でも周りの大人たちでもなくて、自分自身であって、その答えは自分で決めればいい。

 


この記事を書いたのは、確かに自分の昔の経験があって、ずっと考えてきたからだ。

でも、その経験は単なる過去の1ページ。

わたしはその黒歴史と言われるであろうリストカットの経験を今も胸に生きているわけではない。

忘れてしまっていい。

 


それでも、そのエッセンスの関心と問題性ゆえに、わたしのいちばん読まれるエッセイになってしまった。

「なってしまった」というのは、それ自体が決して悪いというのではなく、自分がコンセプトとして掲げて書いた読まれたい記事が読まれないのに、という嫉妬に過ぎない。

何でだよ。もっと、こだわって書いた記事とか伝えたいことは他にたくさんあるはずなのに。

 


その記事自体を書いたことは後悔していない。それもひとつのわたしだ。

ただ、内容が内容なだけに、感情に揺さぶられてむやみに共感するのは違う。

ちゃんと自分の頭で自分にとってその考え方が必要かどうか、飲み込むべきか気にしないでおくべきかを考えなきゃだめだ。

 


今のわたしはそうやって過去の強烈な出来事を引っ張り出してきてエッセイを綴るには限界だ。あくまでそれは、わたしの本当に書いていきたいものではないし、あえて強烈なエッセンスを引き出すための経験をしにいくわたしになるのは決して違う。

だから、伝えたいことがあるときは時には過去のことを引っ張り出すけれど、あえて、自分の傷を犠牲にして書くことは絶対しないでおこうと思う。

 

 

 

書き手にとって、たくさんの人に読まれることは決して悪い気はしないだろう。

エピソード自体が誰かの感情を揺さぶったり、感じ方が分かれるものであればあるほど、それは間違いなく多くの人の読みたい欲を惹きつける。

何度も言うけど、過去の秘密や衝撃的なエピソードを引っ張り出してきてエッセイを書くこと自体は全く否定しない。

自分の経験や考えを伝えるために、それをあえてコンセプトに書く人が必要だと思っている。

 


でも、自分の考えではなく、その「強烈なエッセンス」に条件反射で反応するのはちょっと悲しい。

そのエッセンスの力ゆえにバズると思われる現実は、書き手としてはちょっと悲しいではないか。

 


どうか、書き手が伝えたいことがちゃんと伝わりますように。

エッセイを書くために自分を傷つけることがありませんように。

どうか、伝えたい思いのために、自分の傷を削って血を流しながら書くということが、正しく導かれますように。

ミュージックプレイリストはひた隠し

自己紹介とか、初めましてに近い人に、好きなアーティストは?って聞かれたら、「特にいないけど最近の曲は結構知ってる」って答える。くそつまんない奴だ。

せっかく話のきっかけにしようと思って聞いてくれてるのに、ごめん。

上手くその魅力を語れないのが嫌で、それならいっそ語らないほうが良いと思ってついついはぐらかしちゃう。

 

でも本当はイヤホンしてなきゃ落ち着かないくらい音楽を聴く。

King Gnuの曲は全部ダウンロードしたし、椎名林檎は聴きながら眠ると脳が興奮して結局寝れないし、大ファンの友達に連れられて学園祭のライブを見たときに初めて女々しくて以外の曲を聞いたゴールデンボンバーは、最初はちょっと馬鹿にしてたけど、よく聴いてみると分かりやすいのに共感しかない深い歌詞と鬼龍院翔人間性がドツボにはまって全部聴き尽くした。

ヨルシカとか、ずとまよも、コレサワも、おさえてる。

ドルチェ&ガッバーナの店の前を通り過ぎるときに、ドールチェアーンドガッバーナ↑のフレーズちゃんと出てくるし。

 

昭和歌謡曲や渋い曲も大好きで、朝の通勤電車なのに「神田川」とか「あずさ2号」を永遠リピートしてる時もある。

格好だけはOLで、眠そうに電車に揺られてる23歳女子のイヤホンの中で「お前も蝋人形にしてやろうか」って悪魔が叫んでる日も度々ある。

何でそのチョイス?って、デーモン閣下が何か好きだから。

マスクをしていて顔が隠れてることを良いことに、2回目の「お前も蝋人形にしてやろうかー!!」でテンションぶち上がる。

帰りの電車は小田和正と百恵ちゃん。

夕焼けをバックに近鉄に揺られながら聴く小田和正は、永遠に青春って感じ。

中学生の時、いいちこのCMで流れてたビリーバンバンの「また君に恋してる」に惚れ込んで、お母さんに「この曲のCD欲しい」って言ったら「そんなのあるわけないでしょ」って爆笑されたけど、まさかの、その年の紅白に出てたじゃん。

昭和は良かったなぁって思うけど、わたし平成生まれ。

 

でも、わたしのいちばん語りたくないアーティストは、中島みゆきだ。

語りたくないくせに、エラそうにこのブログに語ることをどうか許してほしい。

いつかnoteに書きたいと思ってたけど、中島みゆきをnoteでしっかり語れるほど、まだわたしは人生を生きていないから、ここで雑談させて欲しい。

 

色んな人生の局面の思い出に必ず中島みゆきの曲がいる。

色んな人が「糸」とか「時代」をカバーするのを聴くけど、どれも違う、これじゃないと思う。いくらカバーをしていたのが自分の好きなアーティストだったとしても好きになれない。

「糸」も「時代」も余計な感情を込めてはいけない。飾りのビブラートも変な抑揚もいらない。

「回る回るよ時代は回る」

誰にも媚びずに淡々と歌われるからその曲達が響くんだと思ってる。

時代が回るという事実にもはや余計な解釈はいらない。

 

中島みゆきは歌手であると共に詩人だ。

もはや曲をつけずとも詩としてちゃんと成り立つ彼女の歌詩に、綺麗事はない。

ちなみに歌詞を集めた詩集も売ってる。本屋で見つけて即買いした。

選びきれないけど、個人的に特に好きをあげるなら、

「夜行」と「命の別名」そして「宙船」。

強め曲が好み。

この3曲は常に頭の中に流れているし、よく口ずさむ。特に好きな部分をあげるけど、聴くたびにその解釈は変わる。

 

『夜行』から、

「夜さまよう奴は、まともな帰り先がないせいだと憐れみを受けている 

ふところに入れた手は凶暴な武器を隠しているに違いないと見られる

本当は散りそうな野菊を雨から隠してる

わざと胸をあけてバカをやって凍えきって風邪をひく

夜行の駅で泣いているのはみんなそんな奴ばかり」

 

『命の別名』から、

「たやすく涙を流せるならば

たやすく痛みも分かるだろう

けれども人には笑顔のままで泣いているときもある」

 

『宙船』から、

「おまえが消えて喜ぶ者に、おまえのオールを任せるな」

 

特に『宙船』の「おまえが消えて喜ぶ者に」は、おまえを私に置き換えると、「私のことを消えて欲しいと思ってる人に」なのか「私自身が消えて欲しいと思っている人に」なのかで、だいぶ意味が変わる。似たシチュエーションにぶつかる度にこのフレーズを思い出す。未だに正解は分からない。

 

共感を得ようとか、よくあるエモいシチュエーションを盛り込もうとか、売れようとか、そんな思惑が透けて見えずに、淡々と感情を硬い鉛筆でカリカリと書くような容赦ない表現がいい。

どうか中島みゆきの歌を歌うなら、媚びずに淡々と歌ってほしい。

 

でも、人生を歌う曲よりも、彼女が得意なのは失恋ソングなんだと思う。さっきの強気の歌詞とは打って変わって、メンヘラ要素満載の曲もある。どんな恋愛をしてきたんだろう。

どこかで読んだけど、1回の失恋があれば100曲は書けるらしい。

とても中島みゆきの足元には及ばないけど、失恋を作品に昇華出来るのは、かく人(書く、描く)つくる人(作る、造る、創る)の特権だ。

クリエイター万歳。

わたしは、ろくに今彼も作れないくせに、ずっと「元彼」という存在が欲しいと思っていたんだけど、それは、思い出すたびにどうしようもない感情になれそうだから。

バンドマンじゃないけど、わたしが将来、大恋愛か、めちゃめちゃ落ち込む失恋をしたら、長編小説にしてやる。ポエムじゃ許さない。(ニュータイプのメンヘラ)

でも、タバコと香水ときみの温もりが残ったシーツだけは登場させないと決めている。

 

中島みゆきの失恋ソングは、どんなタイプの失恋にも響く。

中島みゆきは、古びた喫茶店の一角でひとりあの人を思い出しながら、仕方ないわねって思う女にもなれば、ドアに爪で優しくされてただ嬉しかったと書く、ちょっと後を引きそうな怖い女の気持ちにもなれる。

 

『化粧』

「化粧なんてどうでもいいと思ってきたけれど今夜、死んでもいいからきれいになりたい

こんなことならあいつを捨てなきゃよかったと

最後の最後にあんたに思われたい」

 

『うらみ・ます』

「ふられたての女くらいおとしやすいものはないんだってね

ドアに爪で書いてゆくわ やさしくされて唯うれしかったと」

 

『後悔』

「日付変更線を越えてあなたは戻って行ける

私と出会う前の日々へ ためらいもなく戻って行ける 大切なことはいちばん後に気がつく

心の扉にかけた鍵を 捨てられなくて気がつく」

 

『わかれうた』

「途に倒れて だれかの名を

呼び続けたことが ありますか

人ごとに言うほど たそがれは

優しい人好しではありません」

 

本末転倒だと思うけど、中島みゆきの曲を聴いてると、恋愛よりも失恋がしたくなってくる。

そして、泣いて友達に愚痴るくらいなら、ひとりでイヤホンから中島みゆきの曲を流しながら晩酌していたい。

 

生まれかわったら中島みゆきになりたい。

生まれかわれなくても、中島みゆきの曲が聴ける世界に生まれてよかった。

 

ちなみに何か書きた気がするけど、言葉が浮かばないとかモヤモヤして書けない(noteの人なら頷いてくれる人多いはず)ときは、部屋を暗くして中島みゆきを聴くと、どうしてかストンと何かが腑に落ちる感覚になれる。

降ってくるんじゃなくて、ストンって落ちる。

 

あぁ、音楽コラムを書く技術が欲しい。

もっとちゃんと語れるようになったらnoteでも中島みゆきを語りたいのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日真夜中に書いたこと

最近意味もなく夜中に書きたい衝動が襲ってくる。

夜の時間を持て余してるから、その場の感情で無心に書きたくなっちゃう。

コロナだったり雨だったりで生活に抑制を強いられてるし、単に夜の時間が暇だからだ。

今までは適度に夜ご飯やら飲み会やらあったけど、今はそんなのほとんどない。

朝早く仕事に行って、19時には家に帰ってくるけど、それから寝るまでの4時間くらいをご飯とお風呂で使う以外に持て余してる。

みんなどうやって過ごしてるんだろう。

 

最近のバラエティはそんなに面白くないからテレビはご飯を食べてる時に何となくつけてるだけだし、YouTubeもたまにはいいけど、毎日観たいほど別に好きじゃない。

芸能人で好きな人もそんなにいない。

友達とのLINEは、用事がある時しかしないし、電話も楽しいけど頻繁にすると疲れるから、話す話題があるときだけだけでいい。

誰かにどうしても話したい出来事は、ツイッターに書き込む。

別に返事がこなくてもそれで満足できる。

 

高校や大学時代の友人には、友達多そうだよねとか、何かいつもキラキラしてるイメージって、ちょっとからかい入りで言われる。

でも、何がだろう。

特に趣味もなければ、忙しいわけじゃないのに、LINEの返信半日以上かけちゃうんだけど。

電話してもテンション高いのは最初のうちだけで、だんだん相槌だけになるんだけど。

秒で返ってくる1行ずつの会話、面倒になっちゃって5分ももたないんだけど。

 

きっと、SNSに「誰々と遊んだ」って頻繁に投稿していた大学時代のイメージがあるからだ。

あの頃は予定のない休日が怖かったし、毎日誰かと繋がってないと不安だった。

飲み会も特別何か予定があるとかじゃないと断ったこともないし、授業が終わったらそのまま帰るっていうのが味気なくて、無駄に部室に入り浸ったり友達誘ってスタバに行ったり、ひとりで買い物に行ったりしてた。

フォロワーの数といいねの数が気になったし、スカートやたらと短かったし髪の毛クルクルでめちゃくちゃ明るかったし、化粧濃かったし、大衆的なキラキラJDになりきって暗い部分を隠そうとしていた。

もともとの顔立ちもあって、キャバ嬢みたいって言われてたけど、それってかなり似合ってないよ。

忘れてほしい。どうかあの頃の写真は消してほしい。

でも、調子のってた時代のおかげで極度の人見知りだけはちょっと克服できたからそれだけは戻らないでほしいけど。

 

昔は誰かから見る自分がいちばん自分らしいって思ってた。

自分らしさを分かりたくて、誰かの言葉をとにかく探し回る。

誰かがぽつりと漏らす、もしくは回りくどく自分から聞きにいったわたしの印象をわたしの姿だと思いこむ。

キャバ嬢みたいだねって言われたら、そっか派手なのが似合うのかって。

盛り上げ役とかギャグセンあるって言われたら、そっかわたしおもしろ枠なのかって。

なんかエロいって噂されてても、それは色気とかそういう上品なものじゃなくて、単純に体型だとかスカート短いとかおっぱい大きいとかそういうことだって知ってた。

エロいと色っぽいは全く違うんだよ。

 

今は、何週間か前からLINEで誘って、あらかじめ休日に予定を入れなきゃ、なかなか友達と会えない。

しかも突然遊びに誘っても全然変じゃないくらい仲良い子にしか会わないし。

「サークルの先輩後輩」とか「ゼミの仲間」とか、週何日か顔を合わせてそこそこ会話はしたはずなのに、友達という名前を付けるのに躊躇ってたあの人たちって、誰かの結婚式とか同窓会とか大きな飲み会とか何か特別なことがない限り、もう会わないのかな。

今のわたしは、もう外見、全然キャバ嬢じゃないけどどう思う?

 

社会人になったら外見のことも、良いこと悪いこと関係なくわたしの印象って、誰にも何にも言われなくなった。

会社と家の往復をひたすら繰り返す今のほうがよっぽど孤独なのに、今のわたしがいちばん自分らしいと思う。

そもそも自分らしいって何の定義もないけど、ひとりのお出かけの時に着るのに選ぶ服とか、

自由に2万円自分のために使っていいよって言われたら何を買うかの妄想とか、特に書きたいことも無いのに書き始めちゃうときの話題とか、誰かが関わらない前提で選んだもので出来上がってる自分が、自分らしい。

 

最近は、社会人だからとか関係なく、肩くらいまでの黒髪が好き。だって、楽だし。

シンプルが最強だし、メイクもドラッグストアのブラウン系の薄いアイシャドウで充分だし、くるぶし丈の1枚でばさっと着れるワンピースばっかり探してる。

ブランドものでコテコテに固めるより、ひとつだけ、こだわったものを持ってたほうが逆にオシャレじゃない?

ぺったんこ靴の楽さに慣れたらヒールとかもう履けない。

ご飯食べる前にSNSにあげる写真を撮るのも面倒くさいし、テーマパークに行くなら写真撮るの禁止にしてみたら、絶対もっと楽な格好で行けるよね。ジェットコースター乗っても髪の毛ボサボサでも気にならないし、夜行バスの暗闇でメイクするの大変じゃん。

でも、どれもこれも全部、昔はダサいって思ってたもの。

 

誰の目も気にしなくなるって、ちょっと寂しいけど自由だ。

でもやっぱりたまに夜は寂しくて、話題を考えて友達にLINEするより楽だから、また内容のないことを書いちゃった。