痛みと苦しみのエッセイについて

最近、エッセイが書けなくなった。

エッセイって、どうやっても自分が経験した出来事とか考えたことしか書けない。

想像でエッセイは書けないことは嫌ほど痛感してきた。

 


わたしは物語を書くとき、恋愛感情を描きたくなることが多いけど、正直フィクションで書いていい物語に書くそれすらも正しいのか分からない。

恋愛もろくにしたことないのに、恋や愛を書いていいのだろうか。

わたしが描けるのは所詮、どこかで得た知識でしかない。

わたしはプロの作家でもなければ表現者でもない。表現をすることでお金をもらっているわけでもないし、当然それが仕事ではない。

でも、時々、恋愛経験が豊富であれば、もっと鮮明に複雑な感情が書けるんだろうなって思ってしまう。

エッセイは、エピソードが濃ければ濃いほどそれの説得力が増すはずだ。何かを書くときは、ふわっとした抽象的な表現を重ねるよりも具体的なエピソードがガツンとあった方が読み手の印象に残る具合が全然違うと思っている。

でも、だからといって、書くためにむやみにわたしの心の何かを削るのは違うんだろう。

だから、わたしは、エピソードが書けない「恋愛」というジャンルではまだエッセイはなかなか書けない。

 

エッセイって、等身大のわたしを書くべきなのか、それとも、書きたいもののためにわたしが変わっていくもの、どっちがいいんだろう。

 

バズるエッセイには法則があることに気がついてしまった。

エッセイとは、自分が考えたことや感じたことを直接的に表現できる場所だ。その分、その題材に何を選ぶかをかなりこだわる。

誤解を恐れずに言うと、バズるエッセイの題材に「痛み」や「苦しみ」がある。

痛みや苦しみって誰もが通ってきた道。

友達ののろけ話はうるさくて聞きたくなくても、誰かの、「ここだけの話」って聞かされる秘密の悩みはちょっと聞きたくなっちゃうのは、誰しも秘密にしたい悩みを持ったことがあるからだ。

それは強烈であればあるほど、エッセンスとして興味を引くし、共感だけじゃなくて、色んな議論を生みやすい。

 


正直、今のわたしは、過去の自分の傷をエッセンスにしてしまいそうで怖い。

実際、過去に自分が苦しんできたこととか、自分の心の中の棺にしまっておきたい、いわゆる黒歴史をエッセンスに、いくつかエッセイを書いたことがある。

何かを書くときは、深夜にキッチンの前に座り込んで1時間くらいの時間をかけて、ばーっと指が進むまま書くのがわたしのスタイル。

それらのエッセイも、特に考え込むことなくいつものnoteと同じようにそうやって書いた。

でも、翌朝になって読み返すと、そのエッセンスの強烈さゆえに消したくなって何度も消そうか消さまいかを考えた。

結局、書いたものを消すのは心苦しくて、消さなくても納得できる理由を探す。

納得できる理由とは、得たスキの数と読まれた回数を示すpvの数だ。

それは間違いなく、エッセンスの効果は想像以上に強烈であることを示していた。

 


以前に書いたリストカットについてのnote。

去年の10月の記事だから、もう9ヶ月以上も前なのに、相変わらず1週間に400〜500以上のpvがつく。

ダッシュボードのpvの頂点に、他の記事とは桁外れの数でこの記事が鎮座している。

わたしのいちばんバズった記事がこれだ。

正直な気持ちを話していいなら、複雑で、ちょっと悔しくて、そして心配だ。

リストカット」って検索したら、ページの1ページ目にわたしのnoteが出てくる。

まるで、それの経験者の代表的な意見のひとつみたいだ。

 


リストカットは思春期の日常に身近なタブー。どんなクラスでも1、2人はいたはずだ。

バレたら先生に呼び出されたり、スクープを見つけたみたいにひそひそ友達に噂される。

「あの子、これ、やってるらしいよ」

それでも、内心みんなちょっとドキドキしていたはずだ。気持ち悪いとか痛いっていう嫌悪感かもしれないし、本当はちょっとそれをする気持ちが分かるのかもしれない。

わたしも出来るだけ目立たないように隠していた。

別に大人にSOSも求めていなければ、誰かへの見せしめでも無かった。ただ、自分が自分に負わせる「痛み」という感情で、心を保っていたかっただけだ。心配なんてしてくれなくていいし、無用に騒ぎ立てられるのが嫌で、誰にも気づかれたくなかった。

 


でも、それをどう思うかは個人の意見だ。

当時、これについてのnoteを書いた理由は、自分の中でずっと考えてきた、「リストカットは悪なのか」を大人になった今ならやっと整理して言葉に出来ると思ったからだ。

正直、わたしはリストカットをしている子を見つけても、適度に心配はしてもいいけど、過剰に騒いだり、悪いことだと咎めてやるなと思っている。自分を傷つけることでしか自分を守れない時だってあるんだ。

誰かに迷惑をかけないのならば、法に触れるような犯罪でも無いんだし、それを悪か正しいのか問題にするのは、社会でも周りの大人たちでもなくて、自分自身であって、その答えは自分で決めればいい。

 


この記事を書いたのは、確かに自分の昔の経験があって、ずっと考えてきたからだ。

でも、その経験は単なる過去の1ページ。

わたしはその黒歴史と言われるであろうリストカットの経験を今も胸に生きているわけではない。

忘れてしまっていい。

 


それでも、そのエッセンスの関心と問題性ゆえに、わたしのいちばん読まれるエッセイになってしまった。

「なってしまった」というのは、それ自体が決して悪いというのではなく、自分がコンセプトとして掲げて書いた読まれたい記事が読まれないのに、という嫉妬に過ぎない。

何でだよ。もっと、こだわって書いた記事とか伝えたいことは他にたくさんあるはずなのに。

 


その記事自体を書いたことは後悔していない。それもひとつのわたしだ。

ただ、内容が内容なだけに、感情に揺さぶられてむやみに共感するのは違う。

ちゃんと自分の頭で自分にとってその考え方が必要かどうか、飲み込むべきか気にしないでおくべきかを考えなきゃだめだ。

 


今のわたしはそうやって過去の強烈な出来事を引っ張り出してきてエッセイを綴るには限界だ。あくまでそれは、わたしの本当に書いていきたいものではないし、あえて強烈なエッセンスを引き出すための経験をしにいくわたしになるのは決して違う。

だから、伝えたいことがあるときは時には過去のことを引っ張り出すけれど、あえて、自分の傷を犠牲にして書くことは絶対しないでおこうと思う。

 

 

 

書き手にとって、たくさんの人に読まれることは決して悪い気はしないだろう。

エピソード自体が誰かの感情を揺さぶったり、感じ方が分かれるものであればあるほど、それは間違いなく多くの人の読みたい欲を惹きつける。

何度も言うけど、過去の秘密や衝撃的なエピソードを引っ張り出してきてエッセイを書くこと自体は全く否定しない。

自分の経験や考えを伝えるために、それをあえてコンセプトに書く人が必要だと思っている。

 


でも、自分の考えではなく、その「強烈なエッセンス」に条件反射で反応するのはちょっと悲しい。

そのエッセンスの力ゆえにバズると思われる現実は、書き手としてはちょっと悲しいではないか。

 


どうか、書き手が伝えたいことがちゃんと伝わりますように。

エッセイを書くために自分を傷つけることがありませんように。

どうか、伝えたい思いのために、自分の傷を削って血を流しながら書くということが、正しく導かれますように。