悪態

昨年の春は何をしていたかもう思い出せない。

不安と退屈で、ただただ長く感じられた夜に「ささやかな幸せ」を感じられる方法をひたすら模索していた。

夜中にアイスコーヒー片手に薄暗いリビングの一人用の座椅子にもたれ掛かって、本でも読んでたらそれだけで深夜の時間を満喫した気分になっていた。深夜のひとりぼっちの時間を自分の世界に染められる人は、どんな世の中になろうと生きていけると信じていた。

 


忘れるべき思い出ほど、剥がしたかったけど剥がしきれずに破片が汚く残ったシールの跡みたいに脳裏にこびりついているのはどうしてだろう。

初めてのデートで訪れた場所に、たまたま今度は別の人と訪れた。

同じ駅の同じ改札をくぐって、同じ待ち合わせ場所。そこから見えるあの居酒屋。わざとかと思うほどリンクしていたけど、それは私だけが知ることだ。

 


未来とは、冷凍保存された記憶を置き去りにして、感情だけがアップデートされていく。

過去は未来に繋がっているというけれど、この手の伏線回収の仕方は心が軋む。

時間帯も空気も街の雰囲気も店の場所も何もかも変わっていないのに、唯一変わったのは、「ここは何も変わっていない」と感じることが出来てしまうわたしだ。

初めてだった場所が2回目の場所になって、その場所に置き去りにした記憶が塗り替えられる。

記憶の中のドラマチックな夜も、記憶と感情が噛み合わなくなるとざらりとした苦味を舌に残しては違和な触感を残す。

記憶って、パソコンみたいな上書き保存じゃなくて、既存の絵画の上にカーボン紙を重ねて新たに絵を描いたように保存されることを今更知った。

でもいちばん悪いのは、もう保存しておかなくてもいいはずの記憶をゴミ箱フォルダに入れたつもりで、最後の「消去」のボタンが押せずに、まだ完全に捨てきれていないわたしだ。

もっと悪いのは、いちいち感情的に捉えるこの頭。

お花畑ならぬエモ文学的思考で、あまりに

陳腐な感情すぎて、小説のワンシーンにしたら一気に冷めると思った。

 

 

 

実は、臆病者な私は、案外、相手のことも他人のこともどうでもよくて、自分のプライドのことばかり気にしている。

「わたしがわたしを許せるか」今までそんな基準で生きてきた。でもそんな基準に当てはめると、大抵のことは許せない。

自分に対する理想はめちゃくちゃ高くて、それに到底答えられない現実のわたし(部下)に失望する鬼上司みたいな存在が心にいた。

そいつは、うさぎ跳び校庭10周みたいなことを平気でやらせてくるし、それについていけずに根をあげる自分に対して自己嫌悪がさらに積み重なっていた。

感情の右端と左端を両手で持って雑巾絞りして、そこから滴り落ちる血を見て成果が出ていると思い込んで喜ぶみたいなやつだった。

他人からの期待の方がよっぽど優しいし、他人から言われる暴言なんて、自分が自分に吐き続けた暴言よりもよっぽどかわいいものだった。

まだ24年しか生きていないけど、その2/3は、厨二病的狂気と呼ぶか、ひとりドM劇場みたいな人生だったなと思う。

 


でも最近、その鬼上司みたいな奴が、わたし自身を庇うために第三者に向けて怒ってくれるようになった。

歳を取ると性格が丸くなるみたいなやつで、今は怠惰すぎるからもうちょっと鞭を打ってくれと思う。

でも、誰かに傷つけられたら悲しくて、自分自身にじゃなくて誰かに認められたら嬉しいということを知ったら、やっと自分って大切だなと思った。

砂漠で水を求めるみたいに「愛されたい」と思い続けてきたドM劇場時代だったけど、本当は充分愛されていることを知ったら、愛されることよりも愛してみたいと思った。

 

 

 

春。夜中の一歩手前。薄暗いリビングで、アイスコーヒー片手にキッチンの下に座り込む。

こんな時間にコーヒーを飲めば眠れなくなるのを知っていながらわざと飲みながら、ネットニュースを眺める。

他人のどうでもいいことには目を輝かせて介入するのに、自分はその記事を書きながら寝不足でカップラーメンでも啜ってるんだろうと思うと、他人のことは放っておいてもっと自分のことに介入すればいいのにと思う偏見。

まだ肌寒い夜に、眠れなくなる冷たい飲み物を飲みながらどうでもいい悪態をつくわたしも同類だ。

現実を見れば見るほど目を逸らしたくなる。

「ささやかな幸せ」とは、嫌なことも幸せなことも何もかも忘れられる空白の時間なのかもしれない。虚無。

深夜のひとりぼっちの時間を自分の世界に染めようとは思わなくなった。